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第31話「大男がいない……」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」
第14話「天国へ。お父さんのところへ」
第15話「クマみたいな大男 ①」
第16話「クマみたいな大男 ②」
第17話「大地、寝袋をさがして釧路の街を走る」
第18話「大地、寝袋を手に入れる」
第19話「旅立ちの朝」
第20話「一歩目の勇気」
第21話「ヒッチハイク開始!」
第22話「逃亡」
第23話「上尾幌へ」
第24話「神様がためしてるんだ」
第25話「塘路へ」
第26話「母への電話」
第27話「サダハルたちとの出逢い」
第28話「人生の意味」
第29話「屈斜路湖へ、最後のヒッチハイク」
第30話「お父さんとの旅」


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 物音がしない。
 どこを見ても森か林で、アスファルトの道路以外に人間の匂いを感じさせるものはなかった。その道路にしたってただ静かに横たわっているだけで、車一台とおりかかる気配がない。
 陽射しは森のこずえをかすめて鋭く降り注いでいるのに、何だか薄ら寒かった。人けのない荒涼とした風景の中を歩いているからか、それとも目的地が近いことで緊張しているのか、さっきからやたらと身震いばかりしている。
 大地はたまらず走り出した。アスファルトを蹴る靴音が、小さく、しかし鋭く響く。早く空き地にいこう。空き地にいけば、大男に逢える。そうだ、もうすぐ逢えるんだ。ついにやったんだ。ぼくはやった。自分の力で屈斜路湖にたどりついたんだ……!
 前方に木々の切れめが見えた。近づくと、そこは橋だった。大地は足をとめ、息を切らしながら欄干の文字を見た。『眺湖橋』と書いてある。
 ここだ……。
 クマみたいな大男がいっていた橋。眺める湖の橋。眺湖橋だ。
 ホントにあったんだ……。
 大地は小走りで橋の真ん中までいくと、左手に開けた広大な景色に目をやった。湖だ。すきとおったその湖面が、西日を浴びて金色にきらめいている。
「屈斜路湖だ!」大地は欄干から身を乗り出してその金色の水面を見つめた。「屈斜路湖だ! 屈斜路湖についたんだっ!」
 地形が入り江になっているせいで、ここから見る屈斜路湖は北海道第二の広さは感じなかった。それでも欄干からさらに大きく身を乗り出して遠くを見れば、この湖がかなりの広さを持っているのだとわかる。少なくとも、旅の途中で目にした塘路湖よりははるかに雄大だ。
 遠く向こうの対岸には、丘陵が長々と横たわっている。太陽が西に傾いている影響で、その丘陵は黒いシルエットにかわりつつあった。
 遠くの湖面はぴんと張りつめているが、橋の近くの水は小さく波打っている。その波が、浴槽の栓を抜いた後にふろのお湯が一気に流れ出すように、加速しながら橋をくぐって背後へと流れている。
 大地は振り返り、反対側の欄干へと移動した。
 息をのんだ。
 川だ。
 川が、ジャングルの中を流れている。
 橋をくぐって流れ出した細い川は、マラソンランナーが長いレースのスタートをいっせいに切ったときのように、勢いよく流れていた。その勢いはとだえることなく、左右から倒れこむ木々を小刻みに揺らして、ジャングルのかなたへと吸いこまれるように消えていく。
 川の水はエメラルドグリーンで、川底の石までくっきりと見えるほどにすきとおっていた。そのきらめく水の中を、魚の影が右へ左へと鋭く走る。
 もしかしてこの川……。
 大地は直感的に確信した。この川は釧路川だ。釧路の街で毎日見ているあのねずみ色の川とは似ても似つかないけど、エメラルドグリーンに輝くこの清流こそが、自分がこれから旅する釧路川にちがいない。
 この川が釧路の街までつづいているのか……。
 大地はバックパックを背にたどりついた夜明けの釧路駅を思い出した。あれは今日の朝のことなのに、ずいぶん昔のことのような気がする。あれからここまでくるのに、いろんな出来事があった。その出来事のすべてを、早くクマみたいな大男に語って聴かせたい。
 そうだ。早く大男のところにいこう……。
 大地は勢いよく欄干から離れると、約束の空き地に向けて走り出した。
 空き地は川のすぐそばにあった。
 大地はこれ以上はないほどに強く胸を高鳴らせながら、公道から空き地に下りるスロープを駆け降りた。
 未舗装のスロープにはわだちがいくつも刻まれていて、そのうちの一つが向かう先に紺色の車がとまっていた。
 紺色の車は湖を向いていた。あの車の中にクマみたいな大男がいるのだろう。早くいって驚かせてやろうと思い、大地は笑いをこらえながら走った。
「遅くなりましたっ!」大地は半分開いた助手席の窓に顔を近づけ、二等兵よろしく、敬礼のかまえを取った。
 運転席で漫画雑誌を読んでいた男がこちらを見た。クマみたいな大男ではなかった。土木工事が何かをしているらしい作業服姿の中年だった。
「あ、あれ……?」
「なしたのさ?」
「あ、いや、あの……」
「誰かとまちがえたんかい?」
「あっ、はい。ごめんなさい」
「待ち合わせかい?」
「はい」大地は頷き、クマみたいな大男の特徴を説明した。
「見ないなあ」作業服姿の男はむずかしい顔をして首を傾げた。「ここにいるはずなんかい?」
「おとといからいるはずなんです。屈斜路湖の空き地でキャンプしてるって」
「おとといからって、おら、一週間近くこのあたりで仕事してっけど、そんな大きな男、一度も見てねえぞ」
「そんな……」大地は泣きそうになった。空き地で待っているっていったのに、どうしたっていうんだろう。
「屈斜路湖の空き地って、ホントにここのことかい?」
「えっ?」
「野営場のことなんでないかい?」
「ヤエイ……?」
「ああ。キャンプ場だわ。キャンプするなら、普通は野営場にいくべ。こったら殺風景なとこでなくて」
「はあ……」
「和琴半島でないの?」
「ワコト?」
「湖につき出る半島があるんだわ。そのつけ根のあたりに野営場があってな、内地からきたライダーなんかが大勢泊まってるわ」
「ライダーが大勢ですか……?」
「ライダーだけでなくて、自転車の人とか、それとたまにカヌーで釧路川下る人もいるな」
「カヌーの人?」
「ああ。この釧路川はカヌーのメッカなんだわ。何でも日本で唯一、源泉から海まで下れる川なんだと。おれの知り合いに川下りやるやつがいて、そいつがそんなことしゃべってたんだ」
 メッカだとかゲンセンだとか、そんな説明はさっぱり理解できなかったが、カヌーという言葉に大地は食いついた。
「あの、カヌーの人はみんなその野営場に泊まるんですか?」
「みんなってことはねえだろうけども、ほとんどはそこさ泊まるんでないかい。近くに和琴温泉って有名な温泉もあるし、景色もここよりずっときれいだから、旅行者に人気があんだわ」
「いってみます」大地は車につっこんでいた頭を外に出し、きょろきょろとあたりを見まわした。「どっちの方角ですか? その野営場」
「歩く気かい? むちゃだわ。一時間以上かかるぞ」作業服姿の男はあきれた顔で大地を見上げ、車のエンジンをかけた。「乗れや。その野営場までつれてってやるわ」
「ありがとうございます」大地は遠慮せずに助手席に乗った。
 車はたった今大地が歩いてきた道を逆にたどり、国道243号とのT字路に出た。青信号を右にまがり、畑がいくつも横たわる田舎道を美幌方面に向って走った。畑のところどころにトタン屋根の民家が立ち、その背後になだらかな丘陵が横たわっている。
 五分ほど走り、作業服姿の男はウィンカーを右に出した。
 林と畑が囲む直線の小道をひた走り、やがて車は湖に出た。
「ほれ、ここでみんな野営してっから、さがしてみれ」
 大地は車を降り、作業服姿の男に礼をいった。男はナンモナンモと右手を振り、車をUターンさせて帰っていった。
 コバルトブルーの湖が、信じられないくらいの雄大さで広がっていた。それは今まで生きてきた中でまちがいなく一番に美しい風景だったが、大地はそんなものには目もくれずに大男をさがしはじめた。
 湖畔に、ざっと数えて二十張りほどのテントが並んでいる。この中にクマみたいな大男のテントはあるだろうか。
 なかった。
 キャンプ場のはしからはしまで三往復したが、クマみたいな大男はいなかった。


 和琴半島のキャンプ場をあとにし、林と畑に囲まれた道をとぼとぼと歩いた。
 これからどうすればいいんだろう……。
 大地の頭は混乱していた。哀しくもあり、心細くもあり、みじめでもあった。悔しさもある。怒りもあった。苦労してここまできたのに、どうして約束の場所に大男はいないのか。
 泣きたくなった。だが泣いている場合ではなかった。何とかしなくてはならない。何とかしなくては……。
 だけど何をどうすればいいのか、さっぱりわからない。べつの場所をさがすか、もう一度あの空き地に戻るか。あるいは大男はすでに旅立ってしまったのだと判断するのか。どんなに考えても、答えは出なかった。
 仮にべつの場所をさがすとして、その場所とはどこだろう。まさか北海道で二番目に広いこの湖のまわりを、くまなくさがすなんてできっこない。だったら空き地に戻るか。だけどあの空き地に大男はいなかったのだ。さっき自分の目で見たのだからまちがいない。
 だとしたら、残された道は、大男はもう釧路川をカヌーで漕ぎ出してしまったのだと判断することだった。つまり、あきらめて釧路に戻る選択だ。
 いやだ!
 苦労してここまできたのだ。そう簡単にあきらめたくない。すごすごと帰るわけにはいかないのだ。
 とりあえずもう一度、空き地にいこうと決めた。大男がいなかったのはわかっているが、あの空き地が待ち合わせの場所であるのはたしかなのだ。大男ははっきりといっていた。空き地にこい、と。屈斜路湖の南の眺湖橋って橋のわきの空き地に。その空き地で待っている、と。金曜日まで。そうだ、今日まで待っていると、大男はたしかにそういったのだ。
 二十分ほど歩くと、国道に出た。
 左にまがり、作業服姿の男の車できた道を逆にたどった。だが歩き出してすぐ、大地は足をとめた。あの空き地まで歩いて一時間以上かかるといわれたのを思い出したのだ。ここは得意のヒッチハイクで空き地をめざそうと思った。
 ふと、左手に立つ青い屋根の建物が気になった。一階建てで、コの字形をしていて、ちょっと広めの庭がある。
 門標を見ると、そこに学校の名があった。弟子屈町立の小学校だ。
 嘘、と思わず声を上げた。こんなちっぽけな建物が小学校だなんて信じられない。だがすぐに、あたりの風景を思って納得した。このあたりの土地には人があまり多く住んでいないのだ。人が住んでいないのだから当然子どもの数も少なく、したがって学校も小さいのだろう。おそらくクラスも一つか、せいぜい二クラスで、ちがう学年の児童がごっちゃに授業を受けているのだ。いつだったかテレビでそういう学校を紹介していた。
 児童はすでに下校しているようだった。いつのまにかそんな時間になっていたのだ。振り返って西の方角を見ると、太陽は丘陵のすぐ近くにまで傾いていた。眩しい光だが、ぎらついていた昼間と比べて陽射しはだいぶやわらいでいる。そういえば何となく肌寒い。
 早く空き地に戻らないと……。
 大地は西日に目を細めながら、美幌方面からやってくる車に向けてヒッチハイクを開始した。車の数は少ない。ぽつぽつとやってくるだけのその車のすべてが、大地に見向きもせずに走りすぎていく。
 車が途切れた。大地は重い息を吐きながら膝の屈伸運動をした。太ももがマラソンの授業の直後みたいに重く痛んでいる。
 屈伸運動をつづけていると、西日の光の中に人影が現れるのが見えた。
 大地は眉毛の前に右手をあててヒサシをつくり、目を細めてその人影を見た。どうやら二人いるようだ。さらに目を凝らすと、大きい人影が小さい人影をおんぶしているように見えた。
 人影はこちらに向かって歩いてきた。大地のいる場所から十五、六メートルあたりまでくると、その姿がはっきりと見えた。二人とも、大地と同じ小学生で、やはり大きい方の少年が小さい方の子をおんぶしていた。
 話しかけようか迷いながら、大地はヒッチハイクをつづけた。だが視線は国道を走る車でなく、二人の少年に向いてしまう。やっぱり話しかけよう。大地はそう決めて、ヒッチハイクをいったんやめた。
 こんにちは、と口を開きかけるが、どうしても声にならない。拓也たちみたいないじわるな少年だったらどうしようと、ついつい弱気になってしまう。
「こんにちは」
 大地がびびっているうちに、二人から声をかけてきた。
「こ、こんにちは」
「何やってんのお?」おんぶされている方の子が無邪気な笑顔を大地に向けた。「大きいリュックしょって、遠足?」
「うん、まあ」大地はあいまいに答えた。
「おまえ、この辺のやつじゃねえべ?」大きい方が訊いてきた。「町からか?」
「釧路から」
 大地は答えながら、大きい方の少年の全身をさっと眺めまわした。自分よりも背が十五センチ近く高い。六年生だろうか。いや、そうともかぎらない。これくらいの背丈の五年生は日の出小学校にも何人かいる。
「へっ、釧路かよ」大きい方の少年がつまらなそうにいった。
「きみたちは何してんの?」
「おれたち、家に帰んだ」
 ここで大地は二人の顔が似ているのに気づいた。
「もしかして兄弟?」
「ああ」
「ここの学校」青い屋根の建物を見やって大地は訊いた。
「そうさ」
「じゃあ、このあたりに住んでるの?」
「ちげえよ。もっとずっと先さ。ここから五キロ先」
「あのね、ぼくたちんち学校の中で一番遠いの」兄の背中で弟がいった。コタンよりもっと先だから」
「馬鹿、釧路のやつにコタンっていったってわかるわけねえべや」
 兄に馬鹿呼ばわりされても、弟は慣れっこだというふうに明るい顔のままでいる。
「コタンってのはよ、集落の名前だよ」
「シューラクって?」
「集落も知んねえのか?」少年が馬鹿にした顔で大地を見た。
「うん……」大地はちょっぴりひるんでうつむいた。
「集落ってのはよ、家が集まってるところのこと。この道を真っすぐにいくとよ、左にまがる道があんだ。その道しばらくいくと釧路川があって、橋越えて十分くらいいくとコタンにつくんだ」
 あの空き地の近くだ。つまりこの二人とは行き先が同じということだ。
「おれたちの家の集落はコタンを越えて、もう五分くらいいったとこさ。このあたりじゃ一番小せえんだ。何せ、うちのほかに住んでる人がいねえんだからな」
「きみんちだけ?」
「おととしまではもう二軒あったんだけど、どっちの家も離農して出てったんだ」
「リノー?」
「おまえ離農も知んねえのかよ?」
「う、うん」
「まあ、しょうがねえか。釧路は都会だもんな。あのな、離農ってのは、農家が農業をやめちゃうこと。その二軒は農家をやめちゃったのさ。そんで町に出てったんだ。だから今はうちのほかに廃屋が二軒あるだけなのさ」
「だったら、ぼくんちの町と同じだ」この少年と対等のものを見つけたような気がして、大地は元気を取り戻した。「ぼくの住んでる町もさ、昔は十五軒も店が並んでた商店街だったんだけど、みんな店をやめて出てっちゃったんだ。今はもう四軒しか残ってなくて、ほかはみんな廃屋」
「おまえんち商店街なのか?」
「うん。でも今は店は四軒……」大地はそこで言葉を切った。父が死んだ今、日の出商店街には三軒の店しかないことを思い出した。
「だけど商店街にはちがいねんだべ。すげえな。おれ、商店街なんて見たことねえもな」
 嘘でしょ、と大地は声を上げそうになったが、すぐにその言葉をのみこんだ。畑と林と湖しかないこの土地に、商店街なんてあるはずない。それどころか、一軒の商店すら見かけない。
「ところでさ、どうして弟おんぶしてんの?」
「こいつ、さっき足くじいたんだ」少年は背中の弟に右手の親指を向けた。「和琴半島にいく道の畑にさ、猫がくるんだ。こいつ、いつも給食の残りをやりにいくんだよ。バスの時間まで少しあるからさ。だけど今日はバスの時間になっても帰ってこねえからさ、様子見にいったら、こいつ、うずくまってんだ、道ばたでよ。なっ?」
 兄が振り向くと、弟は、うん、と元気いっぱいに頷いた。
「馬鹿、何笑ってんだ。バスいっちったんだぞ」
「バスいっちった」
「まねすんな、馬鹿」
「あの……」大地は二人のやり取りにわって入った。「おんぶして帰るの?」
「そうだよ」
「五キロあるんでしょ」
「ああ。もっとあるかな」
「歩くの? ずっと、おんぶして」
「仕方ないべや。バスいっちったんだから」
「次のバス待てば?」
「ねえって、次のバスなんて」
「ないの? バス。まだ夕方なのに?」
「あたりめえだべや。もうとっくに下校時間すぎてんだから」
「だけどほかに乗る人は?」
「いねえって、バスに乗る人なんて」
 大地はあぜんとした。釧路のバスはもっと遅くまでひんぱんに走っている。あらゆる場所から、あらゆる場所に向かって。
「ヤベエ、もういかねえと。遅くなると父ちゃんかんかんになるぞ」
「ヤベエヤベエ、父ちゃんかんかん」
「あの……」大地は立ち去ろうとする二人を呼びとめた。「ぼくと一緒にさ、ヒッチハイクやんない?」
 二人は振り向き、宇宙人でも見るかのような目を大地に向けた。
「ぼくさ、ヒッチハイクの達人だから」
「ヒッチハイクって、こうやって車をつかまえるやつか?」少年がヒッチハイクのかまえを取った「おまえ、やったことあんのか?」
「うん」大地は得意げに頷いた。「実はさ、ここまでもヒッチハイクできたんだ」
「釧路から? おまえ一人で?」
「うん」
 こいつただものじゃないぞ、といいたげな目を少年は大地に向けた。自尊心をくすぐられ、大地はこみ上げる笑いをかみ殺すのに苦労した。
「ねえ、やろうよ、ヒッチハイク。結構さ、簡単にとまってくれるんだ」
「駄目だよ」
「どうして?」
「うちじゃさ、知らない人の車に乗っちゃ駄目だっていわれてんだ」
「家までいかなきゃばれないよ。ちょっと手前で降ろしてもらえばいいじゃん」
 少年は首を振った。
「どうして?」
「嘘つきたくねえんだ」
 毅然とした口ぶりでいわれ、大地はもう何もいえなくなった。カウンターパンチをくらった思いだ。いい気になってはしゃいでいた自分が、ひどく子どもっぽく思えてくる。
「じゃあな。わりいけどヒッチハイクはおまえ一人でやってくれ」少年はそういうと、背中の弟を揺すり上げて歩き出した。


つづく



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 道の左右に木立がつづいている。その木々のすきまに馬を見つけ、大地は思わず声をもらしそうになった。だが運転をつづける無精髭の男の顔を見て、言葉を引っこめた。怒っているみたいに見える。やっぱり音楽にケチをつけたのがいけなかったのだろうか。
 道の左右につづいていた木立が森にかわった。まだ午後の早い時間なのに、森が深いせいで夕方みたいに感じる。
 この森が途切れたら屈斜路湖だろうと、大地は何となく予想した。たぶん、もうそう遠くはないはずだ。何時くらいにつくだろう。車のデジタル時計は二時十二分を表示している。三時にはつくだろうか。この男の運転だと、もっと早くにつくかもしれない。
 はるか前方を走っていたはずのRV車が、気づくと目の前にまで迫っていた。無精髭の男は車を右にふくらませ、RV車を追い越した。大地がこの車に乗ってから、もう五台の車を追い越している。
「速い車ですね」大地はつい口にして、はっとしながら無精髭の男を横目で見た。荒い運転を皮肉ったつもりではなかったが、そう取られたかもしれない。
「そうか?」機嫌をそこねた様子もなく、無精髭の男は普通に答えた。
「あの……、何て車ですか?」
「RX‐7だ」
「あーるえっくす……?」
「RX‐7。マツダの車だ」
「格好いいですね」
「そうでもねえさ。古い車だしな」
「でもピカピカじゃないですか」
「毎週洗車してっからな。昨日はワックスがけもしたしよ」
「きれい好きなんですね」
「車しか趣味がねえからな。したけどこいつ、使い勝手がわりいんさ。燃費もわりいし、パワーもねえしな。冬なんておまえ、ろくな動きしねえぞ」無精髭の男はそういって顔をしかめた。「したからよ、もう買いかえんべかって思ってんだ」
「ええっ? どうして? もったいないですよ」
「こったら車はもうはやらんのさ。環境にもわりいし。実際、今はもうゼッパンだしな」
「ゼッパン?」
「生産してねえのさ。したけどマニアっちゅうのはいるからな、そったら旧車好きの連中に高く売れんのさ」
 車に詳しくない大地には、男の話はチンプンカンプンだった。だけど怖い人じゃないとわかり、大地はうれしかった。そしてそれ以上に、自分がこんなにもおしゃべりであることに驚いていた。
「今度はよ、こういう車高が低い車でなくて、何ちゅうか、もっとどっしりしたよ、ランクルとか、パジェロとか、そったら車さほしいんだわ。おれも来年は三十だしな。ちっとは落ちつかんといけんべ」
「どっしりしたのって、どんな車?」
「ジープみてえな車さ。ホントはチェロキーがほしいけど、そいつはちっと手がでねえもな」
 道路のわきに動物の影が見えた。
「あっ、シカ」大地は指さした。「ねっ、シカですよね? あれ」
「ホントだわ」無精髭の男は顔をほころばせた。「ひさびさに見たわ」
「ぼくはじめて」
「はじめてって、何だ、おめえ内地か?」
「ちがいます。釧路です」
「ほお、釧路のどこさ」
「日の出町です。新釧路川の近くの」
「日の出町ったら、鳥取橋のわきんとこ入った?」
「はい」
「路地裏が商店街になってるとこだな!」
「そうです。日の出商店街」
「そうか、何だ、おめえ日の出町かよ」無精髭の男はうれしそうに笑い、ダッシュボードの上からラクダのパッケージの煙草を取った。一本抜き取り、大地を見た。「煙、大丈夫か?」
「はい」本当は苦手だったが、ただで車に乗せてもらっているのだから我慢しようと思った。本当は音楽だって我慢しなくちゃいけなかったのだ。
「そうかあ、日の出町かあ」無精髭の男は懐かしげにくり返し、使い捨てライターで煙草に火をつけた。「日の出町ならよ、ナカヤマ食堂って知ってるべ?」
 大地はどきりとし、首を鋭く振って男を見た。「おじさ……、いや、お兄さん、知ってるんですか? ナカヤマ食堂」
「おじさんでかまわんさ」無精髭の男は苦く笑い、煙草の煙を吐き出した。
「それで、あの……、知ってるんですか? ナカヤマ食堂」
「学生の頃、釧路に住んでたからな。釧路でナカヤマ知らんやつはモグリだべや」
「ホントに?」
「ホントも何も、ナカヤマは有名店だからな。したけどあすこはよ、雑誌なんかの取材をいっさいことわってんだ。常連をたいせつにしたいっていってよ。それでも口コミで広まっちまうから、近頃じゃ観光者もけっこうくるようになったって噂だわ」
 笑いがこみ上げる。すぐにも自分はナカヤマ食堂の息子だと名乗りたい。その衝動をどうにかおさえ、大地は質問を重ねた。「食べたことありますか?」
「ナカヤマでか? あるさ、もちろん」
「ホントに?」
「ああ。ホントさ。今は標茶に住んでっから、しばらくいってねえけど、学生のときは毎日のようにかよったぞ」
「どうして?」
「どうしてって、うめえからに決まってるべや」
 やった、と大地は心の中でばんざいした。父の料理がほめられて最高の気分だ。
「マジでうめえんだわ。中でも一番よく食ったのはザンギ定食だな。ありゃおめえ絶品だぞ。あすこのザンギは、今まで食った中で断トツにうめえわ」
 大地はまた心の中で喝采しつつ、父が毎朝、大量の鳥肉に衣をつけていたのを思い出した。ザンギ定食は店の一番の人気メニューだった。大地も父がつくるザンギが大好きだった。
「ザンギだけでなくて、しょうが焼きもうまかったわ。あとトンカツも。レバニラも捨てがてえな」
「ほかには?」
「ほかか? そうだな……」無精髭の男は煙草の煙を吐きながら、記憶をさぐるように目を細めた。「豚の角煮もよく食ったなあ」
「お肉が好きなんですね」
「かよってたのが学生の頃だったからな。したけど魚もうまかったぞ。あすこはよ、季節の焼き魚定食ってのがあってな、おれもときどき頼んだんだわ。春はホッケが出たし、夏はカレイだったか? 秋はサンマと、それからアキアジも出たな」
「ほかには?」
「あとはそうだなあ、刺身定食なんてのも……」
「そうじゃなくて、ほかにも、毎日かよってた理由」
「ああ、理由か。そうそう、あすこはよ、なまら安いのさ」無精髭の男は大地が期待した答えをまんまと口にした。「定食がよ、全部五百円なんだわ。全部だぞ。安いべ?」
「はい」
「はい、って、おめえ、その値段のすごさがわかってねえべ? トンカツ定食も刺身定食も、全部五百円なんだぞ! ほかの店なら七百円はするわ」
 ホントに父の店が好きだったんだと思い、大地は心の底からうれしかった。同時に、自分がその店の子だと知ったらどんな反応をするかと思い、笑いがこみ上げてしょうがなかった。
「しかもよ、あすこは休みがねえんだ」無精髭の男は短くなった煙草を口に持っていき、音をたてて吸った。「マジで年中無休なんだわ。盆も暮れもやってんだぞ。おれなんておめえ、めったにクニに帰らねかったから、マジで大助かりだったわ」
 そのせいで大地は父と一度も旅行にいけなかった。だけどその不幸と引きかえに、父の店の客は、休まず働きつづけた父に心から感謝していたのだ。
「そういうよ、自分が気に入った定食屋があるってのは、何つうか、どんなにつらいことがあっても自分には故郷があるんだってのと同じようなよ、そういう温かみみてえなもんがあんのさ」
 胸が熱くなる。この話を全部、父に聴かせたいと大地は思った。
「わかるか? 店に入ったときのよ、いらっしゃい、って声が、何つうか、お帰り、っていわれてるみてえなよ、そういう感じが……、って、何だ、どうした? 話がむずかしいか?」
「いえ、そうじゃありません」大地は顔を上げた。「そんなふうに思ってくれるなんて、ホント、何ていうか……」
「ああっ? 何だ、おめえ、へんなやつだな」
「ぼくんちなんです」
「何が?」
「ナカヤマ食堂。ぼくんちなんです」
「ああっ? マジかや?」
「はい」
「何? おめえ、ナカヤマの息子か?」
「そうです」
「やあや。何だ、おめえ、そうかあっ」無精髭の男は目をでかくして笑い、吸いがらでぱんぱんの灰皿に煙草を押しこんだ。「なまらびっくりこいたでや。何だい、そうかい。あのガキがこったら大きくなったんかい?」
「大きくなったって、って……、知ってるんですか、ぼくを?」
「おれがかよってた当時の客だら、みんなおめえさ知ってるわ。もうしょっちゅう二階から下りてきては、お母さんに連れ戻されてたもなあ。ありゃ、当時はちょっとした名物だったべ」
 そうだったろうかと、大地はその頃を思い出した。そうだったかもしれない。いつでも父と一緒にいたかった自分は、母の目を盗んで営業中の店に下りていっては、厨房の父のもとに駆けよって客の笑いを誘っていた。そんな記憶が、おぼろげながら蘇ってきた。
「いやあ、何だい、そうかい。まったくなまらたまげたもなあ。そんで、おやじさんは元気なんかい?」
 大地はうつむいた。
「なしたの?」
「死にました」
「ああっ?」
「死んじゃったんです」
「死んだって、親父さんがかあっ?」
「はい……」
「マジかや? いつよ?」
「今年の七月です」
「したってまだ若えべや。何だ? 病気か?」
「はい」
「そうか……」
「はい」
「そりゃ、おめえ、たいへんだったな」
「はい」
「おれもな……」無精髭の男はダッシュボードから煙草をつかみ、それが空だとわかってごみ箱に捨てた。「いや、何もない」
 森がつづいていた。
 本当ならこの屈斜路湖へとつづく道を、父と一緒に旅しているはずだった。父の隣でまだ見ぬ屈斜路湖の風景を想像しながら、「もう少しでつく?」とか、「ついたらまずは何をするの?」とか、「屈斜路湖には噂のクッシーはいるかな?」とか、そんな言葉をぶつけているはずだった。きっとものすごくご機嫌で、何でもないことにもげらげら笑っていたにちがいない。留守を守る母にちょっぴり気兼ねしつつも、父を独占できる喜びをいっぱいに感じていたにちがいない。大好きなカレーも実は食べている最中より食べる直前の方がわくわくするように、夏休みよりも夏休みに入る前日の方がうきうきするように、あとわずかで目的地に到着するこの森に囲まれた道をいく時間が、おそらくは最高に楽しい時間だったのだ。
 不意に鉛のように鈍い重みを持った哀しみのかたまりが、喉にせり上げた。それがスイッチとなり、大地は泣き出した。すすり泣きではなく、わあん、と小さい子どものように大声を上げて泣いた。
 わんわんと泣きつづける一方で、人前で、それもさっき出逢った人の前で泣くなんて、みっともないと考えた。男のくせにめそめそと泣いている自分を、無精髭の男はどう思っているだろうか。大地は気になり、ごしごしと目をこすって隣の男をちらっと見た。
 はっとした。
 無精髭の男も泣いているのだ。しかも、大地と同じように激しく泣いている。
 どうして泣いているのだろう。不思議に思ったが、今は気がすむまで泣きたかったので、質問は後まわしにして泣きつづけた。
 五分ほど泣いただろうか。気づくと車は道のわきにとまっていた。無精髭の男が、泣きながらの運転は危険だと判断して車を停止させたのだろう。
 大地の涙はむせび泣きにかわっていた。無精髭の男の涙はとまり、かわって不規則な呼吸の音が男の口からもれていた。
「おめえ、哀しかったべなあ」
 大地はしゃくり上げながら、こくりと頷いた。
「そうだべ。いいさ。おめえ、もっと好きなだけ泣けや。気がすむまでよ」
 やさしい言葉だった。口調こそあいかわらずぶっきらぼうだが、最高に温かい声だった。思えば父が死んでから、こんなふうにやさしく言葉をかけられたのははじめてだった。母も、坂巻も、葬儀に列席した親戚や父の知人も、みな言葉をかけてはくれたが、大地の心をいやしてはくれなかった。誰もが、これからはお母さんと二人なんだからいい子にならなきゃ駄目だ、という意味の言葉を投げてきた。そんな言葉を聞くたび、大地の心はむしろ重く沈んだ。父が死んで心と身体がばらばらで動くことさえままならないのに、どうしていい子なんかになれるだろう。
「お父さんが好きだったんだべ? ちっこい頃からそうだったもなあ。厨房のお父さんに甘えてよ、ああ、この子はホントにお父さんが好きなんだなって、おれ飯食いながら思ったもなあ。そのお父さんが死んじまったんだから、哀しくてあたりまえだ」無精髭の男は手の指で軽く目をこすった。「いいさ。泣けや。べつに男だからって泣いちゃいけねえ決まりなんてねえんだから」
 大地はうつむき、目を閉じて、哀しみを思い出してみた。思い出すまでもなく、哀しみはすぐに蘇り、大地はふたたび泣いた。父が死んで一カ月が経ち、哀しみはだいぶ薄れたと思っていたが、大きなかんちがいだった。
 大地は泣きじゃくった。父の死だけでなく、いじめられている自分の境遇や、ついえてしまった漫画家になる夢や、石川彩花へのかなわぬ思いや、空っぽな自分や、すっかりかわってしまった母や、その母に対する自分の気持ちの変化などが、頭や心をぐちゃぐちゃに駆けめぐり、大地を哀しみの海へとつき落とした。
 同時に父が生きていた頃の楽しい思い出も浮かんだ。父の店での洗い場の仕事や、二人で歩く銭湯への道や、そのときかわした言葉の数々が蘇ってきた。それらの光景が、もう二度と戻ってはこないのだ、と叫ぶように破裂し、大地はまた泣き声を強めた。
 夏の日の夕立のように、激しい涙はしだいにおさまった。もちろん夕立とちがって心がからっと晴れることはなかったが、とりあえず泣きやむことはできた。
 無精髭の男が車を発進させた。エンジンを唸らせながら加速し、メーターの針が七〇キロを指したあたりでスピードを安定させた。黒いワゴン車が背後に迫り、無精髭の男のRX‐7を追い越していく。それを見ても、無精髭の男はスピードを上げようとはしなかった。さっきみたいな走り方はしないつもりらしい。
 森はまだつづいていた。
 大地は鼻をすすりながら、フロントガラスに映る景色を見た。木々の葉の緑色が、時速七〇キロのスピードで後ろに流れていく。
 釧路川はどこにあるのだろう。
 地図ではこの道のすぐわきを流れているはずなのに、この車に乗ってから、大地は一度も川を目にしていない。泣きじゃくっている間に遠ざかってしまったのだろうか。
「おれもな」無精髭の男が真っすぐ前を見ながら口を開いた。「おれもこれからおやじに逢いにいくところなんだわ」
「どこまでですか?」
「浜頓別さ」
「ハマトン……ベ?」
「ハマトンベツだ。宗谷地方の、オホーツクに面した町だわ。そこに実家があんだ」
「里帰りですか?」
「通夜なんだわ」
「誰のですか?」
「おやじのさ」
 えっ、と大地は声をもらし、無精髭の男を見た。男は真っすぐ前を向いたまま、苦みを帯びた微笑を口元に浮かべた。
 森が開けた。
 道の左側に何かの畑が横たわっている。その先に、頂上がとんがった丘が二つ連なっていた。寂しい風景だった。窓を閉めきっているのに、その景色を見ているだけで木々の葉がざわざわと泣く声が聞こえるようだった。
「もうじきつくぞ」
 その声を聞き、大地の身体は緊張した。心臓が高鳴る。いよいよだ。いよいよぼくは屈斜路湖にたどりつくんだ……。
「ほれ」無精髭の男がティッシュペーパーの箱をつかみ、大地に放った。「涙ふけや。おめえ、目的地につくときくらいはさっそうとしろや」
「はい」
「まあよ、泣き足りなかったらまた泣いたってかまわねえけどな」無精髭の男はさっきとあべこべな言葉を口にし、やさしく笑った。
「あの……、お兄さんも哀しい? お父さんが死んじゃって」
「おれの場合はな、哀しいってのとはちょっとちがうな」
「哀しくないの?」
「哀しいっていうより悔しいんさ」
「どうして?」
「そりゃあ、おれが駄目なやつだからさ。おやじによ、そんな自分しか見せられなかったことが悔しいのさ。あと少し生きててくれたら、きっと立派になった自分を見せてやれたのにって、そう思うと悔しくてたまらないのさ」
 前方に信号が見えた。ひさしぶりに目にする文明の利器だ。右手に道がのびるT字の交差点で、その角に、かつてはガソリンスタンドだったとおぼしき捨てられた建物がぽつりとある。
「この信号を右にいくと、川湯方面だ。和琴半島にいくなら真っすぐだわ。おめえ、どっちにいくんだっけか?」
「空き地です。あの……、眺湖橋、いや、あの……、釧路川の流れ出しの……」
「そうだったな。したら右だわ。あの道を真っすぐ歩きゃ、すぐにつくべ」
 無精髭の男は信号をわずかにすぎたところで車をとめた。
「さあ、ついたぞ」
 大地は頷き、車を降りた。
「したっけ、達者でな」
「はい。あの……、ありがとうございました」深々と頭を下げ、バックパックを背負って歩き出した。
 道路をわたり、空地へとつづく道を歩き出そうとしたとき、背後で車のドアが開閉する音が響いた。
 大地は足をとめ、振り返った。無精髭の男が車の手前に立ち、こちらを見ていた。
「屈斜路湖に何があんのさあっ?」
「人が待ってるんですうっ!」大地は両手でメガホンをつくって答えた。「その人と、釧路川を下るんですうっ!」
「カヌーでかあっ?」
「本当はお父さんと下る予定だったんですうっ、夏休みにいっ! だけどお父さん、死んじゃったからあっ!」大地はうつむいてツバをのみ、また顔を上げた。「ぼく、一度死のうと思ったんですうっ! もう、何もかもいやになっちゃってえっ! そんで日の出町のスケート場にいったんですよおっ! そこで死のうと思ってえっ! そのスケート場でつらいことがあったからあっ!」
 摩周方面からきた車が道路を走りすぎ、一瞬だけ二人をへだてた。エンジン音が遠くに消えていくのを待って、大地はふたたび声を張り上げた。
「そしたらそのスケート場に男の人がいたんですうっ! クマみたいにおっきい男の人でえっ! まるでぼくの自殺をとめにきた死神みたいに現れて……」
 大地はそこで言葉を切った。死神。思わず口に出た言葉だったが、本当に、あのクマみたいな大男が死神なんじゃないかと思ったのだ。だけどそんなはずはないと、すぐに思い直した。死神なんて、この世にいるわけない。
「そんで、その男の人がぼくを誘ってくれたんですうっ! 一緒に釧路川を旅しないかってっ! お父さんといくはずだった釧路川にっ! それで……、それで……」
「お父さんが導いたんだあっ!」
「えっ?」
「お父さんが導いたんだあっ、おめえを、ここによおっ!」
「お父さんが……?」
「おめえ、しっかり耳をすまして旅すんだぞおっ! きっとなあっ、お父さんの言葉が聞こえっからあっ!」
「お父さんの……」
「いいかあっ。こいつはなあっ、お父さんとの旅なんだぞおっ!」
 さあいけ、というふうにあごを振り、無精髭の男は車に乗った。窓を開け、そこから顔を出してもう一度声を上げた。「釧路に帰ったらよ、おめえの家さいくからよおっ! おめえのお父さんの仏壇に線香上げさせてくれやあっ」
「はいっ!」
 無精髭の男は右手を軽く上げ、窓を閉めて車を走らせた。クラクションが小さく鳴り、真っ白なRX‐7は道の向こうに消えていった。



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第29話「屈斜路湖へ、最後のヒッチハイク」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」
第14話「天国へ。お父さんのところへ」
第15話「クマみたいな大男 ①」
第16話「クマみたいな大男 ②」
第17話「大地、寝袋をさがして釧路の街を走る」
第18話「大地、寝袋を手に入れる」
第19話「旅立ちの朝」
第20話「一歩目の勇気」
第21話「ヒッチハイク開始!」
第22話「逃亡」
第23話「上尾幌へ」
第24話「神様がためしてるんだ」
第25話「塘路へ」
第26話「母への電話」
第27話「サダハルたちとの出逢い」
第28話「人生の意味」

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 心の中を、からっ風がとおり抜ける。
 サダハルの明るい声が、いつまでも耳に残っている。おじさんの言葉や、おばさんの声も、すぐに蘇ってくる。三人の笑顔も、脳裏に焼きついたままだ。
 寂しさを押し殺し、大地はヒッチハイクをはじめようと道路をわたった。道の分岐点がら二十メートルほどいったところでとまり、あたりを見た。田舎っぽい風景のわりには、車は多かった。よしいけるぞ、と大地は全身を熱くたぎらせた。
 ヒッチハイクをはじめる前に、大地は地図を見た。
 この道は、国道391号であると同時に、別海町からつづく国道243号でもあるらしい。大地が半日かけて旅した国道391号は、釧網本線の線路をわたると同時に右へとまがり、屈斜路湖の東側を北上してオホーツクへと向かっていく。一方、別海町からのびてきた国道243号は、屈斜路湖の南西部をかすめて美幌町に向かう。大地が拾うのは、国道243号に向かう車だ。
 大地は大きく息を吸い、ゆっくりとその息を吐き出した。よしやるぞ、と心の中で気合いを入れ、ヒッチハイクをはじめた。
 セイコーマートの駐車場から出てくる車や、道路をはさんで向かい合うエネオスとホクレンのガソリンスタンドから出てくる車が、徐々に加速しながら目の前を走っていく。ヒッチハイクにおあつらえ向きのスピードだ。大地は自信たっぷりに左手を上げ、やってくる車に向けて親指をつき立てた。
 一台、また一台と、車はとおりすぎていく。大地は気落ちしなかった。いずれ誰かがとまってくれるという確信があった。そしてその車こそが、おそらくは自分を最終目的地の屈斜路湖へとつれていってくれるはずだ。屈斜路湖はもう目と鼻の先だ。
 そうだ、ぼくはついに屈斜路湖にたどりつくんだ……。
 大地は全身をぶるっと震わせた。そして今朝からの自分の行動を振り返り、こみ上げる笑いをかみ殺した。やったぞ、という誇らしい思いが胸にある。自分は一人きりでここまできたのだ。それも、何とヒッチハイクで!
 どうだ……!
 大地はヒッチハイクをつづけながら、心の中で声を上げた。よくぞここまできたものだ、と自分でも感心する。とりわけパトカーから逃げきったのは、最高のファインプレーだ。あのままパトカーに乗って交番につれていかれていたら、旅は終わっていたのだから。あそこでいちかばちかの勝負に出たからこそ、ここまでくることができたのだ。
 だけどそれもこれもすべて、自分を乗せてくれた人たちのおかげなのだと、大地は思った。汽車賃が足りなくて打ちひしがれていたところに現れ、ヒッチハイクをすすめてくれた太一、家出の助太刀になるとわかっていながら車に乗せてくれた戸田ファームの戸田さん、車に乗せてくれたばかりか昼食までごちそうしてくれたサダハルたち鈴木一家、みんなのおかげでここまでこれたのだ。その親切にむくいるためにも、必ず屈斜路湖にたどりついてやる。大地は強く思った。
 不意にオートバイガ爆音を響かせながらやってきて、大地にピースサインを送った。大地はどきっとした。太一かと思ったのだ。だがたった今走りすぎていったオートバイは赤で、乗っていたのはちょっぴり太った男の人だった。太一は太っていないし、それにオートバイの色はオレンジだ。今の人は、単にヒッチハイクしている大地を同じ旅人として認めて、それでピースサインを送ったのだろう。
 大地はちょっとだけがっかりしながら、遠ざかるオートバイを見送った。重たい排気音が、木立と牧草だけの荒涼とした風景に鋭く響いた。その音が、かすかな懐かしさをともなって大地の胸に迫る。
 いつか自分もオートバイに乗って旅したい。
 そんな思いが、大地の心にわき上がった。クマみたいな大男との出逢いが運命だったように、きっと太一との出逢いも運命だったのだ。太一と自分は境遇が似ている。二人とも友達がいないし、太一がバスケットをうしなったように自分は漫画描きの夢をうしなった。だから自分も免許を取れる年になったら、オートバイで広い日本を旅したい。大地は本気でそう思った。
 そのときは絶対にカワサキに乗るんだ……。
 太一もカワサキに乗っていた。カワサキゼファー400。炎のようなオレンジ色のタンクを、大地は鮮明におぼえている。
 自分もカワサキに乗って旅をする。その決意を、太一に伝えたかった。だが大地は、太一の連絡先を知らない。住所を訊いておけばよかった、と大地は悔やんだ。住所さえわかれば手紙が書けたのに。
 だからカワサキに乗る。オートバイに乗れる年になるのはまだ何年も先だが、そのときカワサキに乗ることで、太一への感謝を表現しようと思う。
 そのためのお金は持ってるんだから……。
 父の店の洗い場のアルバイトで貯めたお金だ。そのお金は、いつか自分が本当に必要とする大きいものに出逢ったとき使っていい約束になっている。オートバイこそ、自分にとっての大きいものにちがいない。
 だがそのお金は今、母が管理している。母はそのお金をわたしてくれるだろうか。何となく、わたしてくれない気がする。オートバイに使うなんて、きっと許してくれないだろう。いや、オートバイじゃなくても、何だかんだと理由をつけて、結局はそのお金を生活のために使おうとするのではないか。あるいは学費とか。そうだ。母はあのお金を学費に使おうとしているにちがいない。中学校はともかく、高校に上がるとなれば莫大なお金がかかると、いつか父と母が話していたのを聞いたことがある。
 車が二台、連なってやってきた。
 大地は我に返り、ヒッチハイクのかまえを取った。一台目は白いバン、二台目は赤いスポーツカーだ。
 さあこい……。
 心臓が高鳴る。その音が、車のエンジン音をしのいで耳に響く。
 さあこい、とまれ……。
 白いバンがとおりすぎた。スポーツカーは……。
 こい……。
 スポーツカーもとおりすぎた。
 排気ガスの匂いが、あたりに残った。
 絶好球を空振りしたバッターが気を取り直して次の一球に意識を移すように、大地は去っていった車をちらりと見やるだけで、次の車を待った。
 すぐに車がきた。今度のは青い小型のトラックだった。
 大地はヒッチハイクのかまえを取った。だがそのトラックも、大地に見向きもせず走りすぎた。
 大地は気落ちせず、次の車を待った。だが次の車も、その次にきた車も、スピードをゆるめることなく走りすぎた。


 太陽が西へと傾いていく。
 強烈な陽射しが大地を殴りつける。汗が垂れる。喉も乾いて、立っているのがつらかった。
 セイコーマートでコカコーラでも買ってこようか……。
 大地はポケットに手をつっこみ、全財産を確認した。五百円。コカコーラを買っても、まだ四百円近く残る。だけど使えない、と大地は小銭を握りしめながら思った。このお金は、知り合いが一人もいないこの場所で、自分を守るただ一つの武器なのだ。一円でも多く残しておきたい。
 向こうからものすごいスピードで白いスポーツカーがやってきた。サーキットでレースをしているかのような飛ばし方だ。
 大地は無造作に左手を上げ、ヒッチハイクのかまえを取った。とはいえ形だけだ。普通の道路を馬鹿みたいにすっ飛ばして走る人が、人を乗せるためにとまってくれるとは思えない。
 予想どおり、スポーツカーは大地の目の前を走りすぎた。大地はすぐに次の車へと意識を移した。
 不意に背後でブレーキ音が聞こえた。大地は振り返った。先ほどのスポーツカーが、Uターンしてこちらに向ってくる。
「なしたのさあっ?」道の向こう側で車がとまり、運転席から無精髭をはやした男が顔を出した。男の声とともに、けたたましい音楽が窓からもれる。「何だ、おまえ、ヒッチハイクかあっ?」
「あっ、はい。いえ、あの……」大地は警戒した。乗せてくれるのか、それともヒッチハイクをとがめられるのだろうか。どちらにしろ、おっかなそうな人だ。
「どこまでいくのさあっ?」
「あの……、屈斜路湖に……」
「ああっ? 聞こえねえわあっ」
「あ、あの……、屈斜路湖ですうっ!」
「ああっ? 屈斜路湖ったって広いべやあっ。屈斜路湖のどこさあっ?」
「空き地ですうっ!」
「ああっ? 聞こえねえって」
 男は怒ったように顔をしかめた。
「待ってろや」
 男は車を発進させ、ぐるりとまわって大地の目の前にきた。
「とりあえず乗れや」
 助手席の窓が開き、中から男の声が飛んだ。
「いいんですか?」
「ああ。乗れや」
 大地はちょっぴりびびっていたが、覚悟を決めて助手席のドアを開けた。「お願いします」
 ああ、と不機嫌そうに答え、男は車を走らせた。
「そんで、屈斜路湖のどこにいきたいのさ?」
「空き地です」
「空き地? どこにあるんだ、そりゃ?」
「あの……、眺湖橋の先にあるって……」
「チョウコバシ?」
「眺める湖の橋です」
「ああっ? 何だそりゃ?」
「あの……、釧路川の流れ出しにある橋です」
「あったかあ? そんな橋」男は顔をしかめた。「まあいいわ。釧路川なら、湖の一番手前んとこから流れてっから、その辺についたら降ろすわ」
「はい」
 大地は頷いたものの、胸に不安が広がった。眺湖橋なんて橋、本当にあるのだろうか。もしもあのクマみたいな大男が嘘をついたのだとしたら……。いや、そんなはずはない。クマみたいな大男が嘘なんてつくはずがない。だってあれは運命の出逢いだったんだから。
 それにしても音楽がうるさい。うるさいだけでなく不快な音だ。耳をふさぎたい。だけどそんなしぐさをして、この男の機嫌をそこねたくなかった。大地はぐっとこらえた。
「うるさいか?」
「えっ?」
「うるさいか? 音楽」
 大地はあわてて首を振った。だけどどうしてわかったのだろう。表情に出てしまったのだろうか。
「嫌いか? ハウス」
「ハウス?」
「ハウスミュージックだ。嫌いか?」
「いや、あの……、よくわかりません」
 無精髭の男は左手をのばし、カーコンポのスイッチを切った。
「あ、いや、ぼくはべつに……」
 無精髭の男は黙って運転をつづけた。怒らせてしまったのだろうかと、大地はびくついた。
「あの……、ご、ごめんなさい。ちがうんです。だから、つけてください、音楽」
「ああっ? ナンモだ」
 何となく決まりわるくなり、大地は男から視線をそらして真っすぐ前を見た。
 フロントガラスに、荒涼とした風景が広がっていた。


つづく


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 二十歳そこそこの従業員の誘導で車がとまると、サダハルとおばさんはトイレにいくために車を降りた。
 歩き出したサダハルを窓ガラス越しに見て、大地は、えっ、と思わず声を上げそうになった。歩き方がぎこちないのだ。脳だけでなく、足にも障害があるのだろうか。それとも脳に障害があるせいで歩くのが困難なのか。
「屈斜路湖には何しにいくんだい?」
「えっ? あっ、はい……」
 不意に言葉を投げられ、大地は答えに窮した。嘘のシナリオを告げようか、それとも正直に答えた方がいいのか、しばし考えた。
「あの……、人が待ってるんです」大地は正直に答えた。「その人と一緒に釧路川を旅するんです。カヌーで」
「川下りか!」おじさんはうれしそうに声を上げ、顔をこちらに向けた。「驚いたなあ。ヒッチハイクといい、大地君は冒険家だな。学校でもやんちゃでとおってるんだろう?」
「いえ、ぼくはそんな……」大地はきまりわるく首を振った。やんちゃどころか、ぼくには友達すらいないんです、といったら、どんな答えが返ってくるだろう。
「ははは。いいんだって。男の子はやんちゃくらいな方が」
 おじさんの何げないその一言は、大地の胸をちくりと刺した。やっぱり男の子はやんちゃな方がいいんだ、と思い、気持ちが沈んだ。大地は父の入院先へお見舞いにいった日を思い出した。あの日大地は、自分には友達がたくさんいて、昼休みにはフットベースをして遊んでいる、と嘘をついた。父がそのつくり話をうれしそうに聴いていたのを、大地は忘れることができなかった。
 スタンドの従業員が、ごみはないか、と訊いてきた。おじさんが大丈夫と答えると、若い従業員は頭を下げ、車の窓をふきはじめた。ウェスがガラスをすべる音が、こぎみよく車内にまで聞こえた。
「トイレ、長いですね」
「ん? ああ、そうだな。サダハルはちょっと時間がかかるからね」
「あ、ご、ごめんなさい」
「ははは。いいんだよ。気にすることはない」おじさんはやさしく笑った。「ああいう障害を持った人に逢うのははじめてかい?」
「あ、はい」
「どう思った?」
「えっ?」
「サダハルを見て、どんな感想を持ったかな?」
 何と答えればいいのかわからず、大地はおじさんから目をそらした。
「へんな人だって思ったかい?」
「いえ、そんな……」大地は思い切り首を振った。はじめはへんな人だと思ったが、今はそうは思っていない。「あの……、かわいそうだと思います。とても」
「かわいそうか……」おじさんは目を細めた。「そうか。そう思ったか」
「は、はい。だって、その……」おじさんの表情が哀しげに見え、大地は自分の言葉がいけなかったのかと不安になった。「あの……、ご、ごめんなさい」
「いや、いいんだよ。大地君の感想なんだから。実際、他人から見たら、かわいそうと思うのが普通だからね」
 窓ふきが終わった。スタンドの従業員はガソリンの給油口から給油ノズルを抜き取り、キャップをしめた。給油が終わったようだ。
 おじさんはガソリン代をはらうと、車をスタンドのはしに移動した。そこでサダハルとおばさんを待つようだ。
「大地君」おじさんが前を向いたまま呼びかけた。「サダハルみたいに障害を持った人間でも、幸せなことはいっぱいあるんだよ」
「本当ですか?」
「ああ。本当だよ。それどころか、障害があるからこそ出逢えた幸せだってあるんだ」
 嘘でしょ、と口にしそうになって、寸前でふみとどまった。だけど、障害者だからこそ出逢えた幸せがあるなんて、大地には信じられない。
「この旅行はね、サダハルの就職祝いなんだ」おじさんは話をつづけた。「さっき話しただろ? 和菓子屋で働くことになった、って」
「はい。あの、クッキーをつくる仕事だって」
「ははは。それは今までの仕事だよ、つくしの家でのね」
「そうか。ええと、何だっけ? そうだ、豆大福をつくる仕事でした。そこに就職したって」
「そう。来週からそこで働くんだ。だけどね、就職したっていっても、本当は試験的に雇ってもらっただけでね、働いてみて駄目だったらやめてもらうと、そこの社長にもいわれてるんだよ。給料だって、普通の人がもらうよりずっと安いしね」
「ほかにいい仕事はなかったんですか?」
「障害があるから、選べる立場じゃないんだよ。どんなに給料が安くても、仕事をもらえるだけで万々歳なんだ」
 全然幸せじゃないじゃないか、と大地は思った。もちろん口にはしなかった。
「まあ、苦労はするだろうなあ。つくしの家とちがって店の従業員みんなが障害者に理解があるわけじゃないからね。イジメみたいなことも覚悟しなくちゃいけないかもしれない」
「そんなあ」
 おじさんの口からは心配事しか出てこない。やっぱりサダハルはかわいそうだ、と大地は思った。
「本当はね、つくしの家にずっといてくれた方が、おじさんたちだって安心なんだ。あそこなら仲間もいっぱいいるし、職員さんもみんないい人だしね」
「じゃあどうして就職をすすめたんですか?」
「すすめたんじゃないよ。サダハル本人が就職したいといったんだよ」
「どうして?」
「ううん。どうしてかな。何かがそうさせたんじゃないかな。サダハルの中にある何かがね」
 おじさんはそういって笑みを見せた。その顔には余裕が感じられた。心配じゃないんだろうかと、大地は不思議に思った。
「おっ、帰ってきた」
 おじさんの視線の先に、サダハルとおばさんの姿があった。トイレにいって帰ってきただけなのに、おおげさに手を振っている。
「さてと、お昼ご飯でも食べにいくか」おじさんは腕時計をちらっと見た。「もう十二時半だ。おなかすいたろ?」
 もちろん腹ペコだった。だけど、車に乗せてもらった上に食事までごちそうになるのは、ちょっぴり気が引けた。
「た、た、た、ただいまあ」サダハルが必要以上の大声を出しながら車に乗りこんできた。「ガガガ、ガソリン入れたあ?」
「ああ、入れたよ。この車も満腹になったってさ」
「まんぷくう? く、く、く、車があ? 車もまんぷくになんの?」
「なるさ」
 まんぷくぅ、と口にしながら、サダハルはげらげら笑い出した。その笑い声を聞き、大地も何だかゆかいになってげらげら笑った。
「じゃあ、我々も食事にいくか」
 わあい、とサダハルは無邪気に声を上げた。大地も心の中で、やったあ、とばんざいした。


 町はずれの食堂に入った。
 サダハルたちとともに四人がけのテーブル席に座ると、大地は店の中を見まわした。カウンター席が五つ、四人がけのテーブルが五つ、おまけにお座敷の食卓が二つもある。カウンター席しかない父の店より断然広い。だけど客の数は、大地たち四人と、ほかにサラリーマンらしき男の人が二人いるだけだ。町はずれだから仕方ないのかもしれないが、それにしたってがらがらだと思う。父の店なら、十二時台の今の時間帯は、一月、二月のシバれる日だって店の外に行列ができる。
 三杯目のお冷に口をつけたとき、注文したしょうが焼き定食がきた。サダハルやおじさんたちが注文した料理もほぼ同時に出てきたので、四人は声をそろえていただきますといい、いっせいに食べはじめた。
 大地はまずみそ汁に口をつけた。ちょっと塩辛い。具のジャガイモも一つ一つは大きいものの、やや煮くずれしていた。
 しょうが焼きの肉は三枚。大きさはまあまあだが厚みがない。味つけはみそ汁同様こい口。とはいえタレがびちゃびちゃなだけで、肝心のしょうがの風味は効いていない。父の店で出していたしょうが焼き定食とは段ちがいだ。父のしょうが焼き定食は肉がもっと分厚くて、でっかいのが四枚もあった。味つけはこすぎず薄すぎず、しょうがの風味が鋭く効いていた。キャベツももっと山盛りで、おまけに小鉢までついていた。それでいて値段は父の店の方が安い。父の店は五百円で、この店のしょうが焼き定食はは七百五十円だ。
「大地君、何だか料理評論家みたいな顔して食べてるなあ」おじさんが明るくからかってきた。「どうですか、先生? 星はいくつでしょう?」
 大地は薄い肉をご飯とともにかみながら、指を三本立てた。本当はこの程度の料理じゃせいぜい星一つといったところだが、ごちそうしてもらっているのだから、少しばかり上乗せしようと思った。
「大地君は料理くわしいの?」おばさんが興味深げな目を大地に向けた。「将来はコックさん?」
 大地は首を横に振り、口の中のご飯をのみこんだ。「お父さんが食堂をやってたんです」
「へえ。大地君のお父さん、料理人なのか」
「はい。でも……」大地はしばし考えてから、つづきを話すことに決めた。「一カ月前に死んじゃったんです」
 おじさんとおばさんの動きがとまり、テーブルが静まった。エビフライをくちゃくちゃと食べていたサダハルも、驚いた目で大地を見た。
「亡くなったって……、病気か何かで?」
「はい。胃ガンです」
 何といっていいかわからないといった表情で、おじさんたちは定食の残りを口に運んだ。会話が消え、テーブルには、そしゃくの音や食器をテーブルに置く音だけが、寒々しく響いた。
「夏休みに……」大地はしょうが焼き定食を食べつづけながら口を開いた。
「夏休み? 夏休みがどうかしたの?」
「はい、あの……、夏休みに……」大地はいうかいうまいか迷い、覚悟を決めて話しはじめた。「お父さんと旅行に出かける予定だったんです」
「旅行? どこへ?」
「屈斜路湖に」
 はっ、と息をのむ気配があった。三人とも箸をとめて大地を見る。
「そこからカヌーに乗って、釧路川を下ろうって。お父さんと、はじめての旅行だったんです」
「そうだったのか……」おじさんは何かを考えこむように目を閉じた。「それで屈斜路湖にいこうとしてたのか」
 大地は頷いた。
「それで、釧路川をカヌーで下るんだね」
「釧路川を? カヌーで?」まあ、とおばさんは驚いた目で大地を見た。「危ないわよ、川下りなんて。まさか、一人で下るの?」
「大丈夫だよ。一緒に下る人がいるんだよな」
「はい」大地はまた頷いた。「その人、偶然に出逢った人なんですけど、その人が、釧路川を一緒に旅しないか、って誘ってきたんです」
「本当かい? そりゃまたものすごい偶然だね」
「はい。ぼくもびっくりしました。それでぼく、これは運命なんだって思って、だから怖かったけど、一人で旅に出たんです」
 この話をするのも、もう三度目だ。口にするたび、旅に対する思いが強くなっていく。
「お父さんと一緒じゃないのは哀しいけど、それでもぼく、いきたいって思ったんです。知りたかったから。お父さんが、ぼくに何を見せたかったかを。お父さん、釧路川の旅行で、ぼくにいろいろと伝えたいって、いってたから。ぼくの元服だったんです。釧路川の旅行」
 おじさんもおばさんも、頭痛を起こした人みたいな顔で大地を見つめた。サダハルもあんぐりと口を開きつつも、まじめな顔で大地を見ている。エビフライ定食を食べる手も、すっかりとまっていた。
「あ、ごめんなさい。こんな暗い話しちゃって」
「えっ? ああ、いいんだ。いいんだよ」おじさんは我に返ったように場を見まわした。「だけど、そうだな。早く食べちゃおうか。出発、遅くなっちゃうしね」
 おじさんはそういって定食に箸をつけた。おばさんもそれにならい、大地もしょうが焼き定食の残りを口に運んだ。サダハルもエビフライをがっつき、行儀がわるいと父親にしかられた。


 食堂を出て三十分ほどで弟子屈町についた。
 車は市街地には入らず、国道391号と地方道との分岐点に直接向った。国道391号は大地がめざす屈斜路湖へ、地方道は鈴木一家が向う摩周湖へとつづいている。
 分岐点の手前にあるセイコーマートの駐車場に、おじさんは車をとめた。
 大地は車を降り、デイパックを背負って礼をいった。
「本当にここでいいの?」助手席から、おばさんがいった。「何なら屈斜路湖まで送るわよ」
「大丈夫です」大地はきっぱりといった。ここまできたことで、ヒッチハイクに対して自信がついていた。
「まあ、あと少しだし、これも経験だよ。な、大地君」おじさんはそういって運転席から降りた。「どんな人が乗せてくれるか、楽しみだな」
「はい。あの、ありがとうございました。本当に」
「いいんだ。こちらこそ、楽しかったよ」
「手紙、書いてね」助手席からおばさんがいった。
「はい」大地はポケットに手を入れ、さっきもらった鈴木家の住所を書いた紙をさわった。
「は、は、はがきも、かいてねえ」サダハルが窓から顔を出し、ねんがじょうもかいてね、しょちゅうおみまいもかいてね、クリスマスカードもかいてね、と思いつくままに口にし、げらげらと笑った。
 大地も笑った。そしてもう一度礼をいい、歩き出した。
「大地君」
 おじさんの声が呼びとめた。大地は立ちどまり、振り返っておじさんを見た。
「どんな人生にも必ず意味があるんだよ」おじさんは熱いまなざしを大地に注いだ。「障害者であるサダハルの人生にも意味があるし、サダハルの親であるおじさんたちの人生にも意味がある。大地君、きみの人生にも大きな意味があるんだよ」
 なおも熱いまなざしをこちらに向けるおじさんを見上げながら、大地は言葉の意味を考えた。人生の意味って何だろう。
「お父さんが亡くなったことは気の毒だと思う。だけどそれで自分が不幸だって決めつけちゃいけないよ。たしかに今は哀しいだけかもしれないけど、その哀しみはずっとつづくものじゃないんだ。世の中にはね、完全な闇なんてないんだよ。必ずどこかに小さな光があって、その光は闇の出口なんだ」
 おじさんの話はむずかしくて、大地にはさっぱりわからなかった。それでも大地はおじさんの言葉をしっかり受けとめようと、必死に耳を傾けた。
「きみも幸せになれるんだよ。サダハルが幸せなようにね。おじさんやおばさんが幸せになれたように。いいかい。幸せってのは、自分で決めるものなんだ。他人のものさしではかるものじゃないんだよ」
 おじさんは右手を差し出してきた。そんなことをされたのは生まれてはじめてなので、大地は驚いておじさんを見た。そしてその手を握り返した。熱くてかたい、大人の男の人の手だった。父と手をつなぎながら銭湯へと歩いた日の記憶が、胸によみがえった。
「元気でね」
「はい」
 おじさんは車に乗った。
「気をつけていくのよ」
「て、て、てがみ、かいてねえ」
 銀色のハッチバックはのろのろと走り出し、摩周湖に向う地方道を走っていった。


つづく


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第27話「サダハルたちとの出逢い」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」
第14話「天国へ。お父さんのところへ」
第15話「クマみたいな大男 ①」
第16話「クマみたいな大男 ②」
第17話「大地、寝袋をさがして釧路の街を走る」
第18話「大地、寝袋を手に入れる」
第19話「旅立ちの朝」
第20話「一歩目の勇気」
第21話「ヒッチハイク開始!」
第22話「逃亡」
第23話「上尾幌へ」
第24話「神様がためしてるんだ」
第25話「塘路へ」
第26話「母への電話」

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重い排気音で目が覚めた。
 大地はぼんやりと顔を上げ、たった今とおりすぎた車を目で追った。大型のタンクローリーだ。置き去りになった真っ黒い排ガスが、あたりの景色をぼかしている。
 そうだ、自分は旅に出ていて、ヒッチハイクをしていたのだ、と大地は思い出した。ちょっぴり疲れて、しゃがみこんだまま眠ってしまっていたのだ。
 今何時だろう。時計を持っていないからわからない。大地は空を見上げ、太陽の位置から時間を推測した。かなり高い。昼になっているかどうか、そんなところだろう。
 車がこないので、しゃがんだままでいようと思った。だけどもしかしたら神様が見ているかもしれないぞ、と思い、大地は立ち上がった。ふてくされたみたいにしゃがんでいるのが気に入らなくて、神様が車をとめてくれないのかもしれない。
 そうだ、ぼくは神様にためされてるんだから……。
 大地は決めた。これからは車がこなくても座るのはやめて、ずっと立ちつづけていよう。どんなに疲れていていも、ずっと立ったままの姿勢で車を待つのだ。
 カーブから銀色の車が現れ、のろのろと近づいてきた。
 きた、とつぶやき、大地は腕を上げた。だが車が交差点の信号に引っかかったので、のばした左手を下げた。
 その瞬間、誰かが自分を見ている感じがした。そして、その誰かがささやく。この車だぞ。この車を逃したら、後はないと思え……。
 大地は下ろした左手をふたたび上げた。親指を立て、まだ信号に引っかかっている車に向けてアピールする。信号が思いのほか長く、腕がだるくなった。それでも大地はがんばってヒッチハイクのかまえを取りつづけた。この車だ。この車を逃したら、もう屈斜路湖にはいけなくなるんだ……。
 信号が青になり、車は走り出した。大地はツバをのんだ。胸が高鳴る。のばした左手が震える。
 いくんだ、ぼくは屈斜路湖にいくんだ……。
 大地は歯をきつくかみ、震える左手に魂をこめた。その手をちょっと揺さぶり、お願いとまって、とドライバーにアピールした。
 運転しているのは五十歳か六十歳の男の人だ。横に奥さんらしき婦人が乗っている。
 銀色のハッチバックがすぐそこにまで迫ってきた。大地はドライバーを見た。するとドライバーも大地を見た。助手席の婦人も大地を見て、隣の男に何かをいった。大地は左手の親指をさらにぴんと立て、祈りをこめて揺さぶった。
 銀色のハッチバックがスピードをゆるめた。道路の左側により、大地の立つ位置から三メートルほど進んだところでとまった。
 やったぞ……!
 大地は右手でバックパックをつかみ、車に駆けよった。同時に助手席の窓から婦人が顔を出し、大地を見た。
「一人で旅行してるの?」
 朱色の帽子をちょこんとかぶったまるい顔は、大地を温かく迎えているように見えるが、その声にはかすかに非難めいた響きがあった。大地は、はい、と答えつつ、警戒して立ちどまった。
「何年生? どこからきたの? お母さんは知ってるの、この旅行のこと?」
「まあまあ、お母さん、いいじゃないか」運転席から男の人が降りてきた。恰幅のいい、白髪頭の、メガネをかけたおじさんだった。その姿を見て、大地はケンタッキーフライドチキンのカーネルおじさんを連想した。
「だけど、お父さん、ヒッチハイクなんて危ないわよ」
「なあに、夏休みなんだ。これくらいの冒険心があった方がいいのさ、男の子は」そういっておじさんは大地に笑いかけた。「いやあ、昔を思い出すなあ。おれも子どものときは、友達と一緒に遠出したものさ。親には内緒でな。海辺で夜を明かして、次の日にくたくたになって帰ったんだ。親父にぶん殴られたっけな」
「あなたの時代と一緒にしないでくださいな。今は世の中がぶっそうなんだから」
「なあに。子どもの冒険心に今も昔もないさ。なあ?」
「あ、はい」同意を求められ、大地はとっさに頷いた。
「今、いくつだい?」
「十一歳、五年生です」
「そうか。名前は?」
「中山大地です」
「大地君か。とてもいい名前だ」おじさんは心から感心した顔でいった。「おじさんたちは鈴木っていうんだ。東京の八王子ってところからきたんだよ」
「鈴木さん」
「そうだ。鈴木だ。おじさんたちはこれから摩周湖にいくんだ。大地君、きみはどこにいきたいんだい?」
「屈斜路湖にいきたいんです」
「そうか。じゃあ、おじさんたちの車に乗っていくかい?」
「いいんですか?」
「ははは。いいもわるいも、そのためにとまったんだ。なあ?」
「そうよ」おばさんが答えた。「だけど、本当はいけないことなのよ。ヒッチハイクなんて。世の中にはわるい人もいっぱい……」
「まあ、いいじゃないか。よし。じゃあいこう。大地君、後ろに乗って」
 大地は後部座席のドアを開け、おじゃまします、と口にしながら車に乗った。
「こん、こん、こんにちはあああっ」
 ほっと息をつきかけたところへ、騒がしい声が飛んできた。隣に人が乗っているとは予想していなかったので、大地はそこに獰猛な犬でも見たかのようにぎょっとした。
「サダハルだよ」運転席から声が飛んだ。「おじさんたちの息子だ」
 大地はあらためて隣の男を見た。さっき声をかけられたときは、自分と同い年くらいの子どもだと感じたが、よく見ると、その顔は大人の顔だった。ところどころにしわがあるし、口やあごのあたりに髭のそり残しがある。一瞬にしろ、どうして子どもだと思ったのだろう。
「大地君、仲よくしてやってね」おばさんが大地を振り返っていった。
「はい」大地は返事しながらも、内心で首を傾げていた。どうして大人であるサダハルに対して、子どもである自分が仲よくしてあげなくてはならないのだろう。普通ならその言葉は、大人であるサダハルに向けられるはずだ。
 車が走り出し、その反動で運転席以外の三人の身体が大きくつんのめった。
「うわあっ。び、び、び、びっくりしたよお」サダハルが本気でびっくりした顔をし、父親に向けて子どもみたいに口をとがらせた。「ゆ、ゆ、揺れたよお。こんなにい。びっくりしたよお」
「わるいわるい」おじさんは苦笑した。「慣れない車だから、失敗しちゃったな」
「でしょお? だってこんなに揺れたもん。ねえ。見たあ? 見たよねえ? 揺れたよねえ?」
「は、はい」自分へと振られ、大地はたじろいだ。
「ねえ、きみも揺れたあ? あの……、あれ……?」サダハルは頭を抱えた。「あれ? 名前、何でしたっけ?」
「あの……、大地です」名乗りながら、助け船を出してもらおうと前の二人を見た。正直、このサダハルという男のペースについていけない。
「おい、サダハル。大地君の名前はな、広い土地って意味なんだぞ」おじさんが運転をつづけながら声だけを後ろに送った。「さっき見たろ? 釧路湿原。ああいう広い土地を大地っていうんだ」
「くしろしつげん?」サダハルは目をまるくした。「くしろしつげんが名前なの?」
「そうじゃない」大地が答えるより早く、おじさんが答えた。「釧路湿原みたいに、広くて大きいところを大地っていうんだ。いい名前だと思わないか?」
「うん。思う」サダハルが答えた。「いい名前と思う」
「そうだろ」おじさんは満足げに頷いた。「きっと、大地のように広くて大きい人間になってほしいって、そういう願いをこめてつけたんじゃないかな。お父さんがつけたのかい、大地って名前?」
「はい」大地は返事をしつつ、横目でサダハルをちらちらと見た。大人とは思えない無邪気なしぐさを見て、この人きっと障害者なんだ、と自分なりに答えを出した。身体ではなく、脳に障害がある人。釧路でもたまに見かける。
「聞いたことない? 名前の由来」
「ゆらい?」
「名前の意味さ。聞いたことないかい?」
「ありません」
「今度、訊いてみるといいよ。名前ってのは、親の願いがこめられているものだからね」
 父は自分に何を願ったのだろう。どんな思いが、大地という名前にこめられているのか。もう聞けないのだと思い出し、心がひりひりした。
「お父さん、ぼ、ぼ、ぼくの名前は? ぼくの名前には願いある?」
「あるさ」
「どんな?」
「この前、教えたろ」
「忘れちゃった」
「もう一度、教えてあげたら」おばさんがいった。
「だけどもう何度も教えてるんだぞ。いいかげんおぼえろよ、サダハル」
「どんな願いですか?」大地は口を出した。気を利かせたつもりだった。
「うん、そうだな。大地君にも聴かせてやるか」おじさんはちらっと大地を見た。「王貞治って知ってるかい?」
「前にホークスの監督だった人です」
「サダハルの名前はね、王貞治からきてるんだよ」
「そうなんですか」
「うん、そう!」横から舌足らずな声が飛んだ。「ホ、ホ、ホ、ホークスの監督のオウサダハル。だけど、む、むかしは巨人の選手で、か、監督になって、しばらくやめてて、そんで、ホ、ホ、ホークスの監督になった」
 父親に何度となく説明されたのだろう。サダハルは暗記した文章を読み上げるようにいった。
「サダハルは一九七七年の九月三日に生まれたんだ。何の日かわかるかい?」
 大地はまったくわからず、一秒も考えずにさじを投げた。「わかりません」
「王貞治が756号のホームランを打った日さ」
 おじさんは、どうだ、とばかりに口にしたが、大地にはその数字が持つ意味がわからなかった。だいたい王貞治のことも、あまりよく知らない。すごい選手だったとはちらっと聞いたことがあったが、それでもあまりぴんとこない。
「世界一のホームラン王になった日よ」大地が何の反応も示さないので、助手席のおばさんがこちらに顔を向けた。「一九七七年九月三日。王貞治が世界一のホームラン王になった日に、この子は生まれたの。だから名前をいただいたのよ。ずうずうしいかなとも思ったけど」
「世界一の人の名前ですか」大地は感心していった。「すげえ」
「だけどね大地君、おじさんたちは、王貞治が世界一の人だからって名前をもらったんじゃないんだ。王貞治はね、人の何倍も努力した人なんだ。はじめは三振王っていわれるくらい打てなかったのに、一本足打法を必死で練習して、それでホームランバッターになったんだ。ホームランを打てるようになってからも、努力することをやめなかった。努力の人なんだよ。そういう人になってもらいたくて、貞治って名前をいただいたんだ」
 ふうん、と心の中で理解しつつ、大地は横目でサダハルを見た。お父さんの願いがかなわなかったんだな、と気の毒に思った。
 道は右に左に大きなカーブを描いた。右手に見えていた塘路湖が背後に消え、かわって左手にべつの湖が現れた。シラルトロ湖だな、とおじさんがカーナビゲーションを見ながらつぶやいた。
 車はシラルトロ湖のわきをあっというまにとおりすぎた。道の左右から水辺の風景が消え、その後は林と草原が交互に現れた。
 道路のわきに『牛横断注意』の看板があった。その看板を認めた直後に、広大な牧草地が横たわった。
「う、う、牛ぃ!」サダハルがいち早く声を上げた。「う、う、牛。ほら、う、う、牛がいるよお」
 上尾幌から塘路に向かう道の途中でいくつもの牧草地を見たから、サダハルのように声を上げるほどの感激はなかった。だけどサダハルが牛を指さしてはおかしくてたまらないとばかりに笑うので、何となくつられてゆかいな気分にになった。
「牛見るの、はじめてなんですか?」大地はおずおずと訊いてみた。
「ううん。見たことあるよ。つ、つ、つくしの家の近くにも、う、う、牛いるから」
「つくしの家って?」
「ぼ、ぼ、ぼくが入ってるしせつ。『つくしの家』っての」
 やっぱりそうだ、と大地は納得した。このサダハルっていう人、障害者なんだ……。 
「その施設の近くに牛がいるの?」
「うん、いる」
「牧場?」
「まあね」サダハルは、まるでその牛が自分のペットであるかのように、得意げな顔をした。「う、う、牛の小屋があって、そこに十とうくらい、う、う、牛がいるの」
「へえ。じゃあ、毎日見てるの、牛?」
「ちがうよ。ま、毎日じゃない。け、け、けいうんどうの日だけ」サダハルはつまらなそうにいった。「け、け、けいうんどうは、木よう日だけだから。ままま、前は、月ようと木ようの二日だったけど、ほうりつがかわったから」
「けいうんどうって?」
 おばさんがこちらを振り向いたが、おじさんに肩をつつかれて前に向き直った。話にわりこむな、といわれたみたいだ。
「き、き、近所の公えんを、さ、さ、さん歩するの。しょくいんがいんそつして。たまに、ボ、ボ、ボランティアの人もくるけど」
「その途中に牛の小屋があるの?」
「うん、そう。十とうだけ」
 道の左右には、あいかわらず牧草地がいくつも横たわり、あきれるくらいの数の牛が散らばっていた。高い建物はなく、セルリアンブルーの空が果てしない奥行きを持って広がっている。
 サダハルは牧草地を目にするたび、うれしそうに声を上げる。きゃっきゃっ、と声を上げて喜ぶその姿は、小学一年生の子みたいだ。とても大人の男の人には見えない。
「その『つくしの家』にかよってるんですか?」
「ううん、ちがうよ。ぼ、ぼ、ぼくは、にゅ、にゅ、にゅうしょだから。かようのは、つつつ、つうしょの人だけ」
 サダハルの説明を聞くだけでは、何が何だかさっぱりわからなかった。大地は助けを求めようと前の二人を見た。だがおじさんもおばさんも知らんぷりだ。サダハルと大地の会話にわりこまないと決めているみたいだった。
 仕方なく大地はサダハルに質問した。にゅうしょって何? つうしょって? にゅうしょだとどうしてしせつにかよわなくていいんですか……?
 サダハルは、そんなことを知らない人がいるなんて信じられない、といった表情をしつつも、ちゃんと教えてくれた。大地は一つの質問につき五回も六回も訊き返しながらも、サダハルが『つくしの家』という施設に入所していて、そこで寝泊まりしながらクッキーをつくる仕事をしているのだとわかった。また、一緒に働く仲間の中には自分の家から毎日かよってくる者もいて、その人たちのことを通所というのだと説明してくれた。
「はじめはけいさぎょう班だったんだけど、とちゅうから、ク、ク、クッキー班にかわって。ぼ、ぼ、ぼくは、ク、ク、クッキー班の方が向いてるって、しょ、しょく員もいってたから」
「クッキーをつくって売るんですか?」
「そ、そう。しょ、しょ、しょく員と一緒に……」
「おい、サダハル、これからはちがうだろ」おじさんが話に入ってきた。「クッキーは前の仕事じゃないか。話すなら、来週からはじまる新しい仕事の話をしなくちゃ」
「そうだった」サダハルは顔をくしゃくしゃにして笑い、右手で後頭部をかいた。「新しい仕事がはじまるだった」
「新しい仕事って?」
「ああ、ぼく、しゅしゅしゅ、しゅうしょくしたんだよ」サダハルが答えた。「しょ、しょ、しょく員といっしょに、か、か、会社をほう門して」
「何の仕事?」
「わがし」
「えっ?」
「ま、ま、まめだいふくをつくる仕事。あ、あ、朝の六時からお昼まで。て、て、てづくりだから、けっこうたいへんなんだけど、ちゃんと、おし、おし、教えてくれるから」
 大地はサダハルが作業場で大福をつくる姿を頭に描いた。だがどうしても、ちゃんとつくっている姿が浮かんでこない。
「朝が早いからたいへんなんだよお」
「そうだな。だけどちゃんと起きなきゃな」おじさんがいった。「これからは『つくしの家』みたいに甘えてちゃ駄目なんだから。まずは職場の人に信用してもらえるようにならないと。そのためには遅刻だけは絶対に駄目だ。わかったな」
「うん」
 牧草地ばかりだった風景に、ぽつりぽつりと建物が現れた。町が近づいているようだ。
「もうすぐ標茶だな」おじさんがカーナビゲーションを見やった。「大地君、トイレは大丈夫かい?」
「あ、大丈夫です」
「サダハルは?」
「する」
「そうか。じゃあスタンドに入るか」
 おじさんはウィンカーを出し、コスモ石油のスタンドに入った。



つづく



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第26話「母への電話」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」
第14話「天国へ。お父さんのところへ」
第15話「クマみたいな大男 ①」
第16話「クマみたいな大男 ②」
第17話「大地、寝袋をさがして釧路の街を走る」
第18話「大地、寝袋を手に入れる」
第19話「旅立ちの朝」
第20話「一歩目の勇気」
第21話「ヒッチハイク開始!」
第22話「逃亡」
第23話「上尾幌へ」
第24話「神様がためしてるんだ」
第25話「塘路へ」


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 軽トラックの影が見えなくなるまで見送ると、大地はヒッチハイクの場所に向かうべく歩き出した。屈斜路湖の方角は右だから、車をつかまえるのは道路の向こう側だ。駆け足で道路をわたり、交差点から十メートルほど歩いたところでバックパックを下ろした。
 林の間に横たわる道路は、ここから五十メートルのあたりで左カーブに消えている。そこから現れる車を待つのだが、今のところ車がやってくる気配はない。
 大地は深呼吸をし、押しよせる不安をはねのけた。だが不安は消えるどころか、むしろ大きくなった。エンジン音一つ聞こえないこの静寂の中に立っていると、車が一台もこないまま夜になるんじゃないかと、ついわるいことばかり考えてしまう。
 身体が震えた。恥ずかしいけど、今にもちびりそうだった。こんな何もないところで夜を迎えるかもしれないと思うと、怖くて怖くて叫び出したくなる。
 ええい、ちくしょう……!
 千本ノックを受ける遊撃手のような思いで、大地は折れそうな心に渇を入れた。とにかくヒッチハイクするんだ。今は車はこないけど、いずれ必ずやってくる。その車をつかまえて、屈斜路湖にいくんだ。屈斜路湖にさえたどりつけば、そこにはクマみたいな大男が待っている。大男と一緒なら、何も怖くはない。
 遠くで何か聞こえる。その音がゆっくりと近づき、徐々に大きくなっていく。車のエンジン音だ。車だ。車がきた!
 大地はヒッチハイクのかまえを取ろうと、全身に力をこめた。そして左手の親指に、気持ちをこめる。やがて白い乗用車がカーブをまがって現れた。大地はツバをのみ、親指を立てた左手を勢いよく道路に向けた。車が近づくにつれ、得体のしれない恐怖で身体が震える。それを振りはらうように、大地は歯を食いしばって迫りくる白のセダンを鋭く見た。やるしかないんだ、と思った。何が何でも屈斜路湖にたどりついてやる。ぼくはためされてるんだ。クマみたいな大男に、いや、神様に、ためされているんだ!
 白いセダンはスピードをゆるめることなく大地の前を走りすぎた。排気音が屈斜路湖方面の道へと遠ざかり、広い景色の中に吸いこまれていった。
 気落ちする間もなく、また車がきた。今度こそ、と大地は気持ちを引きしめ、左手を上げた。だがまたしても車は、大地の目の前を走りすぎた。とまってくれるそぶりなど一つも見せずに。
 その後も車はぽつぽつながらもやってきた。だがどの車もとまってはくれなかった。中にはでっかいクラクションを鳴らしながら走りすぎる車もあった。まるで大地に向かって、邪魔だ、と怒鳴りつけるように。
 大地はがっくりと肩を落とした。本当にとまってくれる車なんてあるのだろうか。ヒッチハイクをすすめてくれた太一は、車なんて簡単につかまるといっていたけど、とてもそうは思えない。ここまで無事にこられたとはいえ、それは太一やツナギの男の親切心があったからこそで、大地はまだ自分の力では一台の車もつかまえてはいないのだ。
 やっぱりヒッチハイクなんて無理なんじゃないの……?
 大地はその場にしゃがみこみ、林の間に横たわる道路を見るともなしに見つめた。灰色のアスファルトは、陽光を受けて眩しくきらめいている。もう八月の終わりなのに、夏が引き返してきたかのような陽射しだった。喉がからからだ。いや、それより腹ペコだった。今日は朝から何も食べていない。
 大地はズボンのポケットに手をつっこみ、全財産を取り出した。五百二十円。もう一方のポケットに太一にもらった百円があるが、これは使っちゃいけないお金だ。全部で五百二十円。菓子パンとジュースを買ったら、あまりは二百円くらいになってしまう。
 大地は悩んだあげく、よし、と口にして立ち上がった。土佐商店で何か腹もちのいい食べ物を買おう。菓子パンとか、中華まんとか。それとコーラも!
 道路をわたり、土佐商店に駆けこんだ。だがそこは大地が想像していたような店ではなかった。パンやお菓子を売る店ではなく、塘路湖で捕れた特産品を売る店なのだ。あるのはワカサギの佃煮やいかだ焼きなどで、そのどれもが千円以上する代物だった。
 ため息をつきながら店を出た。お金が減らなくてよかったともいえるけど、今はやっぱり何か食べたかった。こんなに腹ペコじゃ、ヒッチハイクする力がわいてこない。
 ふと、駐車場の片隅に電話ボックスがあることに気づいた。最近では釧路の街でも見かけなくなった、黄緑色の公衆電話だ。テレホンカードだけでなく、硬貨も使えるタイプの電話だった。
 電話……。
 心が重くなった。ツナギの男の言葉を思い出したのだ。いや、たった今思い出したわけではない。ヒッチハイクしている間も、ずっと頭から離れなかった。
 お母さんに電話しろ……。
 冗談じゃない、と大地は思った。自分は家出してきたのだ。クマみたいな大男と旅するための家出だけど、母に心配をかけさせてやるのもこの家出の大きな目的だ。ここで電話をかけてしまったら、その目的が達せられなくなる。
 だけど、警察に連絡されるのはまずい。
 ツナギの男はいっていた。大地がいないことに気づけば、母は家出だけでなくて、誘拐の可能性も考える、と。そのときは絶対に警察に連絡する、と。
 警察に連絡されたらアウトだ。大地はすでに二人の警官から逃げ出しているのだ。母から連絡を受ければ、警察はきっとあのときの少年にちがいないと考えるだろう。大地はあの二人の警察に顔をおぼえられてしまっている。大勢で捜索されたら、今度はもう逃げられない。
 大地は電話ボックスへと駆けこみ、受話器をつかんだ。ポケットから小銭を取り出し、十円玉を投入した。二十円でどれくらい話せるかわからなかったが、どの道、長く話すつもりはない。電話がつながりさえすればいい。自分が誘拐されたわけではないと母に伝われば、それでいいのだ。
 母の携帯電話の番号を押した。数秒後に、呼び出し音が鳴り出した。
 鼓動が速まった。足ががくがくと震え出した。何ていえばいい? 大丈夫だから、といえばいいのか。それとも、お母さんが冷たいから家出したのだと、はっきりと伝えるべきか。
 呼び出し音が途切れた。心臓がぎくりと跳ね上がり、大地は身体をかたくした。
(はい……)
 低く緊張した声が大地の耳に届いた。母の声ではない。男の人の声だ。
(もしもし)
 坂巻の声だ。どうして? 番号をまちがえた? いや、そんなはずはない。ちゃんと母の携帯電話にかけたはずだ。だったらどうして? どうして坂巻のおじさんが電話に出たんだろう?
(どちらさまですか?)
 とりあえず何か話さなくてはと思い、大地は口を開いた。だがくちびるが震えてしまって、声が出てこない。
(大地か?)かすれた声で、坂巻が訊いてきた。(大地か? 大地なのか?)
 大地は答えようと息を吸った。だがやはり声が出てこない。
(大地っ。大地なんだなっ!)
「お、お、お、おじ……、おじさん」
(おい、大地っ。無事かっ? 無事なのかっ?)
「おじさん、ぼく、あの……」
(おい、おめえ、今どこにいるんだ? ええっ?)
「いえない。いえないんだ」
(なしていえんのさ?)
「ごめんなさい。だけど、場所はいえないんだ」
(横に誰かいるのか? おめえ、まさか知らない人につれられたんでねえべな?)
「ちがうよ。ちがうから。そんなんじゃないから。大丈夫だから。だから警察に電話しないで。ねっ、おじさん」
(したけど、おめえ……)
「もしかして、もうしちゃった? 警察に電話?」
(いや、まだだ。今みんなでどうすべかって話してたとこだ)
「しないで! 絶対に。ぼく、心配いらないから。だから警察には電話しないで!」
(心配いらねえっていったって……。おめえ、いったい何があったんだ?)
「何もない。何もないよ」
(何もねえって……。したけど学校の先生から電話があったんだぞ。ここんとこずっと学校にきてねえって。おめえのお母さん、仕事にいく前にその電話さ出てな、おめえの部屋さ見たら、もぬけの殻だったって。そんでおじさんたちに知らせにきたんだ。おめえ、学校いってねえって、どうしたわけさ?)
「それは……、その……」
(ええっ? お父さんが死んじまって哀しいのはわかるけど、したけど、おめえ、登校拒否なんて。おまけに黙っていなくなっちまうなんて、おめえ、いったい……)
「五日間……」
(ああっ?)
「五日間だけだよ。その後ちゃんと帰るから」
(五日間って、おめえ……)
 大地はここで電話を切ろうかと考えた。用件は伝えた。これで警察に連絡される心配はなくなった。心おきなく旅がつづけられる。だけど……。
 だけど……。
「おじさん。お母さんにかわって」大地は泣きそうな声でいった。「お母さんに……、お母さんと……、話したいんだ、ぼく」
(駄目なんだわ)
「えっ?」
(今はな、ちょっと無理なんだわ)
 どうして……?
 そう訊こうと口を開いたが、その口が震えて声にならなかった。母は怒っているのだ。学校もサボって、おまけに家出までして、だから怒って電話に出てくれないのだ。
(お母さんな、おめえが……)
 電話が切れた。プー、プー、という音が、大地の耳にむなしく残った。
 もう一度電話をかけ直そうと、大地はポケットの小銭に手をかけた。だがすぐにその手をポケットから出した。電話ボックスのドアを力なく押し、とぼとぼと歩き出した。


 ふたたび道路の向こう側に立ち、ヒッチハイクをはじめた。だが気持ちが入らない。母が電話に出てくれなかったことが、心を重く沈ませていた。
 お母さん……。
 大地は弱々しく口にした。
 どうして電話に出てくれないんだよう。勇気を出して電話したのに……。
 内緒で家を出てきたのだから、母が怒るのも無理もない。だがそう思う一方で、普通の親なら怒るより先に心配するのではないかと大地は思った。家出したにしろ、誘拐されたにしろ、自分の子どもがいなくなったのだ。心配で心配でたまらないはずだ。そしてその子どもから電話があれば、誰よりも先に話したくなるはずだ。
 なのにお母さんは電話に出てくれなかった……。
 大地はその場にしゃがみこみ、膝を抱えた。その腕に顔をうずめ、思い切り泣いた。激しくしゃくり上げながら、ちくしょう、と声をもらした。ちくしょう、ちくしょう、お母さんなんて、もう知るかよお……。
 大地は両手で涙をぬぐいながら立ち上がった。息を大きく吸い、鼻をすすり、もう一度ごしごしと涙をふいて顔を上げた。いくんだ、と心の中で強く誓った。いくんだ。絶対に。屈斜路湖まで、何が何でも、いってやるんだ……!
 車のエンジン音が、静寂の中にかすかに聞こえた。大地はその音に神経を集中させた。音は少しずつ、本当に少しずつ迫ってくる。
 大地は身がまえ、カーブを見た。紺色の乗用車がそのカーブから現れた。ボンネットに太陽の光を反射させながら、こちらに向ってくる。大地はツバをのみ、赤いマントをかまえる闘牛士のように、ヒッチハイクのかまえを取った。
 さあこい……。
 左手を上げ、親指をつき立てた。
 こい……。
 その手に力を入れた。
 とまれ……。
 車はしかし、スピードをゆるめることなく走りすぎた。
 大地は息をつき、道ばたに座りこんだ。次の車がくるまで体力を温存しようと思った。
 一分ほどすると、また車のエンジン音が遠くに聞こえた。
 大地は立ち上がり、車がカーブをまがって現れるより先にヒッチハイクのかまえを取った。虫の羽音ほどのエンジン音が徐々に大きくなり、すぐ近くにまで迫った。やがてカーブから、銀色のワンボックスカーが現れた。
 大地は左手に力をこめ、フロントガラスに映るドライバーを見た。ドライバーは大地に気づいたそぶりを見せたが、何だありゃ、とでもいいたげな笑い顔を向け、大地の前をとおりすぎた。
 排ガスや土煙が、その場に残った。大地は汚れた空気を右手ではらいながら、身体を休めようと腰を下ろした。両手で膝を抱え、その膝におでこをくっけて目を閉じる。意識が遠のきそうになる。眠ってしまいそうだ。
 何げなく顔を上げると、カーブから車が現れるのが見えた。大地はあわてて立ち上がり、ヒッチハイクのかまえを取った。車の背後に、べつの車もきているのが見えた。それも二台も。全部で三台だ。一台くらいはとまってくれるだろうと大地は期待した。
 一台目は深緑の古いジープだった。幌をばたつかせて走る姿は、うっとりするほどにカッコよかった。ぜいたくいうつもりはないけど、どうせ乗せてもらうなら、こういうカッコいい車がいい。
 お願い、とまって……。
 大地は祈るようにドライバーを見た。サングラスをかけた男が、ちらっとこちらを見るのがわかった。大地は親指を立てた左手を、さらに道路に向けてのばした。
 だがジープはいってしまった。大地はため息をつきつつ、遠ざかるジープの後ろ姿をむなしく見つめた。
 すぐに二台目がきた。白い乗用車で、運転しているのは女の人だった。その女の人は、大地と目を合わすのを嫌うかのように真っすぐ前を見つづけ、そのままとおりすぎた。
 三台目はトラックだった。低く重いエンジン音が、怪獣の鳴き声みたいに響いている。今度こそとまってくれるんじゃないかと、大地は大いに期待した。映画やテレビドラマで観るヒッチハイクば、いつでもトラックと相場が決まっている。
 大地は左手をのばせるだけのばし、ドライバーを見た。トラックはしかし派手なクラクションを大地に向けて鳴らすと、でかい車体を大きく右に振って走りすぎた。
 駄目じゃん……。
 大地はがっくりと肩を落とし、ため息をつきながらしゃがみこんだ。膝を抱え、その膝におでこをつけて目を閉じた。



つづく


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第25話「塘路へ」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」
第14話「天国へ。お父さんのところへ」
第15話「クマみたいな大男 ①」
第16話「クマみたいな大男 ②」
第17話「大地、寝袋をさがして釧路の街を走る」
第18話「大地、寝袋を手に入れる」
第19話「旅立ちの朝」
第20話「一歩目の勇気」
第21話「ヒッチハイク開始!」
第22話「逃亡」
第23話「上尾幌へ」
第24話「神様がためしてるんだ」


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 上尾幌の集落をあとにすると、軽トラックは山道に入った。
 フロントガラスに映る風景に、大地はわくわくしてきた。田舎の景色のもの珍しさに浮き立っているだけでなく、そんな風景を進んで目的地に向かっている事実に興奮しているのだった。何度も身体をぶるっと震わせ、そのたび運転席から、どうした? と声が飛んだ。
 道路のわきに『牛横断注意』と書かれた看板を見つけ、大地はおかしげに笑った。
「ふざけてるんですかね。牛が横断なんて」
「ふざけてなんかねえぞ。ホントに牛が横断すんのさ。したからドライバーに気いつけれ、って標識立てんだわ。ほれ、おれたち地元の人間はわかりきってるからいいけど、観光客が事故起こすとまずいべや」
 見てみれ、とツナギの男は道の左側を指さした。そこは起伏のある広い牧草地で、無数の牛が散らばっていた。
「すごいっ」
「ほれ、向こうにも」
 サッカーのグラウンドが五面も六面もできそうな広大な牧草地に、三十頭ほどのこげ茶の牛が思い思いの姿勢で立っていた。
「すごくいっぱいいますね。あの牛が道路を横断するんですか?」
「長いときは十分も待たなきゃなんねえんだ」
 大地は想像した。十分間も牛が道をわたるなんて、どんな感じだろう。
「ちゃんとした横断でなくて、まれに牛舎から脱走してくる暴れ牛もいるわ。おらんちの牛も何度か脱走したっけな」
 ツナギの男はそうした話をつづけつつ、また現れたべつの牧草地を指さした。その牧草地をすぎても、すぐにまたべつの牧草地が見えてくる。やがてツナギの男はいちいち牧草地を指さすのをやめた。それでも大地は牧草地の牛を見るたび、すごいすごい、と声を上げた。
「おめえ、北海道のくせに牛見るのはじめてか?」
「見たことはあるけど、こんなにいっぱいの牛を見るのははじめてです。釧路は街だから」
「そうか。おめえ、旅行さいったことがねえってしゃべってたな」ステアリングを山道のカーブに合わせて動かしながら、ツナギの男はいった。「したけど、うちだって子どもさ旅行につれてったことなんてなかったぞ。ほれ、おじさん牧場やってるから、家さ空けられねんだわ」
「どうして?」
「そりゃおめえ、牛の世話さしねえとなんねえべや。まあ、親として申しわけねかったって思うけどな。したけどその反動だべか、せがれのやつ、札幌の大学さ入ったとたん海外旅行にばっか出かけてるわ。この夏にはタイにいってきたってしゃべってたな」
 道の左右に民家が現れた。小さいながらも商店もあり、小学校やホクレンのガソリンスタンドもあった。
「阿歴内の中心地だわ。釧路と比べたらちっこすぎて笑っちまうべ?」
「あれ? 郵便局ありましたよ」
「ああ。あれは郵便しかやってねえんだわ。小さい集落の郵便局はたいていそうなのさ。したからお金おろしたり振りこんだりするときは、上尾幌まで出るんだわ」
 上尾幌でさえ、大地の目には寂しい風景に映った。それよりさらに小さな町があるなんて、釧路の街しか知らない大地にはちょっとした感動だった。
 阿歴内の中心地が背後に遠ざかり、また道の左右には牧草地が現れた。
「お父さん、何歳だったのさ?」
「四十三歳です」
「若いのになあ。病気かい?」
「胃ガンです」
 父の入院中、その病名は大地には知らされていなかった。大地は父の病気が治るものだと信じ、必死に漫画を描きつづけて退院を待った。そんな日々が、やけに遠く感じる。
 右手の木立のすきまに湖が見えた。
「塘路湖だわ」大地がたずねる前にツナギの男はいった。「この湖をとおりすぎれば塘路の集落だわ」
「じゃあ、もうすぐですね」大地は居住まいを正し、降りる準備をした。
「まだだ。広い湖だから、すぐにはつかんわ」
 ツナギの男のいうとおり、湖はしばらくつづいた。木立のすきまに、鏡のような水面がちらちらと見える。ときどき深い林に隠れて見えなくなるが、忘れかけた頃にまた木々の切れめに現れる。そのくり返しがつづいた後、ようやく湖は見えなくなった。
 遠くに信号が見えた。
「国道391号線だわ」ツナギの男はT字の交差点へとあごをしゃくった。「あの道を右にまがれば屈斜路湖につくわ」
 大地はももの上のバックパックをぎゅっと抱き、震えそうになる身体をおさえた。あの交差点をまがれば屈斜路湖につく。だがこの車がそのまま目的地までつれていってくれるわけではない。また一人になって、自分の力で車をつかまえなくてはならないのだ。
 信号が近づくと、車はスピードをゆるめ、交差点の手前の店の駐車場に入った。店の看板に『土佐商店』と書いてある。
 ツナギの男がエンジンを切ると、大地は礼をいいながら車を降りた。男も車を降り、ううん、と低い声を発しながら背中をのばした。
 今や太陽はすっかり高みに昇り、八月の終わりとは思えない強烈な陽射しを振り下ろしている。ただ風があるので、陽射しの強さほどは暑さは感じない。
 大地はバックパックを背負った。
「いいか、屈斜路湖はあっちだぞ」
 ツナギの男が指さす方角に、大地は目を向けた。細い樹木が並ぶ荒涼とした風景が、静かに横たわっている。屈斜路湖につづく道はその風景を左にカーブし、樹木の群れへと消えていた。
 白い乗用車がかん高い音をたてて、二人の目の前を横切っていった。数秒後にまたべつの車がやってきて、屈斜路湖の方角へと走りすぎた。大地は遠ざかるその車を見つめ、ぶるっと身体を震わせた。これから自分の力でヒッチハイクし、屈斜路湖へと向かわなくてはならないのだ。そう思うと、むしょうに怖くて身体の震えがとまらなかった。
「いいか坊主、ホントはいけないことなんだからな、家出ってのは」ツナギの男が熱い目を向けてきた。「お母さんの気持ちも考えてやらねえとな」
 大地はうつむいた。母のことを思うと、心が重くなる。
「電話しろ」
 男の声が頭上に落ち、大地はぎくりとした。顔を上げ、ツナギの男を見た。
「お母さんに電話しろ」
「だけど……」
「心配してるわ。今頃、きっと」
 大地はまたうつむいた。電話はしたくない。
「警察にだって連絡するかもしんねえな」
「ケーサツ……?」大地は顔を上げた。さっきの二人の警察官の顔が、脳裏によみがえった。
「ああ。そうだ」
「だけど、お母さん、きっとまだぼくの家出に気づいてないと思います。だって、いつもぼくを起こさないで仕事に出かけるから」
「そうだとしても、夜になりゃ気づくべ。そんときは家出だけでなくて、誘拐かもしんねえって思うわ。したら絶対に警察に連絡するべ。大騒ぎになるべや」
「誘拐……、そんな……」
「したからよ、騒ぎがでかくなる前に電話しろ」
「だけどぼく、帰りたくない」
「何も帰れなんていってないわ。お母さんに電話して、一言、大丈夫だっていやあいいんだ。その後、屈斜路湖にでもどこにでもいけばいいわ」
 大地はまたうつむいた。母に電話するのは、やっぱりいやだ。
「まあいいわ。おじさん、おめえを信じってっからな」
 ツナギの男は車に戻り、何かを持って戻ってきた。
「これ、おじさんの電話番号が書いてあっから、屈斜路湖にいって、その何とかって男が待ってなかったら連絡しれや」
 大地は差し出された紙を見た。『戸田ファーム 戸田仁』とあり、そのわきに住所と電話番号が書いてあった。名刺だ。
「いいか。くれぐれも気いつけていけや」
「はい。あの……、ありがとうございました」
「ナンモだ」ツナギの男ははにかんだ笑みを大地に向けると、軽トラックに乗ってエンジンをかけた。クラクションを一つ鳴らし、きた道を引き返していった。



つづく



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 駅前のとおりは未舗装のじゃり道で、周辺にはトタン屋根の民家が散らばるように立っていた。少し歩くだけで建物がなくなってしまいそうな、小ぢんまりとした集落だった。人が歩いている様子はなく、また車が走っている様子もなかった。
 大地はバックパックを揺すり上げ、じゃり道を歩き出した。とりあえず車が走っていそうな場所まで歩こうと思った。
 歩き出してすぐに小さな郵便局が見えた。その前に差しかかったところで、出入り口から出てきた男とぶつかった。
「ごめんなさい」大地はあやまりながら男の容姿を見た。紺色のツナギを着たおじさんだった。
「ナンモだ。そっちこそ大丈夫だったかい?」
「はい。そうだ、えっと……、あの……」
「何だ?」
 大地は地図を取り出そうと、肩からバックパックを下ろした。『阿歴内』に向かう道に出るにはどうすればいいのかと訊こうと思ったのだ。
 ツナギの男は大地のバックパックを見ると、不審そうに顔をゆがめた。「何だ、その荷物は?」
「旅行です」ちょっぴりおじけづきつつも、大地は堂々と答えた。
「どっからきた?」
 大地は答えに迷った。東京からきたと嘘をつくべきか。それとも正直に話した方がいいか。
「内地か?」
「はい……、いや、ちがいます」直感的に嘘はつかない方がいいと思った。「釧路です。釧路からきました」
「釧路の子がこったら駅さ降りてどこいくんだ?」
 大地はバックパックを下ろし、地図を取り出して『阿歴内』に向かう道のはじまりを指さした。「ここです」
「細かい地図だな。老眼だから見えんわ。口でいってみれ」
 口でといわれても『阿歴内』の読み方がわからない。仕方なく、地図をたたみながら最終目的地を口にした。
「屈斜路湖です」
「ああっ?」予想しなかった地名が飛び出てきたからか、ツナギの男は怒ったような声を上げた。「屈斜路湖っていったら、あさっての方角だべ。なしてこったら駅で降りたの?」
 どう答えればいいのかと、大地は言葉につまった。
「屈斜路湖なら、摩周とか川湯温泉とか、そっちの方で降りるべ、普通」
「ヒッチハイクしようと思って」大地は思いきっていった。うまくすれば、車に乗せてくれるかもしれない。
「何だと?」ツナギの音は眉をひそめた。「ヒッチハイクって、あのヒッチハイクか?」
 声の調子から、ヒッチハイクをよく思っていないのだとわかった。田舎で暮らす人なら子どもの冒険に理解があるのではないか、と思ったのだが、大人の常識に都会も田舎もないようだ。
「子どもが一人でヒッチハイクなんて、どうしたわけさ?」
「あの……それは……」
「ヒッチハイクするにしたってよ、なして上尾幌からはじめんのさ? 遠まわりだべ」
「乗る汽車をまちがえちゃったんです。それでお金が足りなくなっちゃって仕方なくヒッチハイク……」
「したっけ家に帰って出直せばよかったべや。お母さんにお金もらって、あらためて屈斜路湖にいけばいいべ。したらヒッチハイクなんてしなくてすんだしょ」
「はい……」
「なしてそうしなかったの?」
「はい……」
「だいたい、お金足りなくなったって、ぎりぎりしか持ってこなかったのかい? 屈斜路湖までいくってのに? お母さん、お金くんなかったんかい?」
 うまい説明が思いつかない。このままだと家出してきたのがばれそうだ。せっかく警察から逃げてきたのに、また警察につき出されたら今度こそ本当に屈斜路湖にいけなくなる。
「おめえ、まだ小学生だべ?」
「はい……。五年です」
「その五年生がたった一人で屈斜路湖に何しにいくのさ?」
 大地はうつむいた。どう答えたらいいのか、さっぱりわからない。
「ちゃんと話してみれ。ほれ、おじさんの目を見て」
 大地は顔を上げた。ツナギの男の顔は厳しかったが、頭ごなしに大人の権力を振りかざす感じではなかった。ちゃんと話をすれば、わかってくれるかもしれない。
「人が待ってるんです」
「人って誰さ?」
「釧路で逢った人です」
「釧路で逢った人って、いつ逢ったのさ?」
「三日前に」
「それじゃ、ほとんど他人でねえか」
「だけど、今はちゃんとした知り合いで……っていうか、大事な人で……」
「何してる人だ?」
「何してる、って?」
「仕事だ」
「ザンボーニの運転」
「ああっ?」
「いえ、あの……スケート場の従業員です」
「その人と待ち合わせてるのか?」
「はい。ぼくに、屈斜路湖にこい、って。金曜日までに」
 話せば話すほど、ツナギの男の顔はけわしくなっていった。警察に届けようかどうか考えているのかもしれない。無理もないと大地も思う。どう考えても自分の説明はあやしい。
「お母さんには何ていってきたんだ?」
「えっ?」
「お母さんによ、何ていって出てきたんだ? まさか黙って出てきたんでねえべな?」
 大地は答えにつまり、ツナギの男から目をそらした。全身がいやな感じに熱くなり、胸がどきどきと鳴り出した。
「そうなのか? おめえ家出してきたのか?」
「ち、ちがいます……」
「嘘こくんでねえぞ。大人相手に嘘こいてもすぐにわかるんだからな」
「う、う、嘘じゃありません」
「したらお母さんに電話さしてみれ」ツナギの男が携帯電話を差し出してきた。「できるべ? 家出でねえんなら」
 大地は泣きそうになりながら、差し出された携帯電話を見つめた。何とかごまかそうと必死に頭をひねるが、うまい言葉が見つからない。
「やっぱり家出なんだな」ツナギの男は突き出していた携帯電話を引っこめ、プッシュボタンに目をやった。「仕方ねえ。警察に連絡するしかねえな」
「待って」大地は声を上げた。「待ってください」
「待てっていっても、おじさんにも大人としての責任さあるからな。子どもの家出を見逃すわけにはいかんのさ」
「お願いします。警察にはいわないでください」大地は泣きそうな声でうったえた。「たしかに家出ですけど、ただの家出じゃないんです。何ていうか、今まで生きてきた中で一番大事なことなんです」
「たとえそうでも、やっぱりお母さんに内緒で出てきたってのはうまくねえべや。それも一人でヒッチハイクなんて危ねえべ」
「大丈夫です。だって今は一人だけど、屈斜路湖につけば二人だから」
「それも問題なんだよなあ。その屈斜路湖で待ってる人って、知り合いっていっても赤の他人も同然でねえか。そったら人の誘いに乗るなんて、なまら危険だべや」
「大丈夫です。絶対に。だからお願いします。警察にはいわないで。ぼく、ホントにいかなきゃならないんです」
「いかなきゃならんって、屈斜路湖にいって、いったい何すんのよ?」
「屈斜路湖からカヌーに乗って釧路川を下るんです」
「川下るって、何だ、おめえ、遊びにいくのか? ただ遊びにいくことが今までの人生で一番のことなのか?」
「ちがうんです。そうじゃないんです」大地は声もかれんばかりにうったえた。自分の思いが正確に伝わらないもどかしさで、涙がこぼれてきた。
「泣いたって駄目だあ。家出の目的がただ遊びにいくだけなら、やっぱり警察に連絡するしかないわ」
「待って。待ってください。あの……お願いだから、ぼくの話を聴いてください」
 ツナギの男は開いた携帯電話を閉じ、大地を見た。その目を受けとめ、大地は口を開いた。
「釧路川をカヌーで下るのって、もともとはお父さんとする予定だったんです。夏休みに、お父さんと二人で」
「それが何だ?」
「生まれてはじめての旅行だったんです。ぼくんち食堂だから休みがなくて……それなのにお父さん死んじゃって。旅行いけなくなっちゃって……」話すうちに哀しい記憶が蘇り、喉のあたりが塩辛くなった。大地は鼻をすすり、涙声でつづけた。「ぼく、本当に楽しみだったんです。だって生まれてはじめての旅行だし、お父さんと二人でカヌーの旅だし。それにお父さんいってました。今度の旅行は、ぼくにとっての元服だって。だからその旅行でぼくは一皮むけるんだって。だけどお父さん死んじゃって。そんなのってひどすぎませんか?」
 大地はしゃくり上げながら、ツナギの男をちらっと見た。男は腕を組み、真剣な顔でこちらを見ていた。ちゃんと話を聴いてくれているんだ、とわかってうれしくなり、大地は右手で涙をぬぐって話をつづけた。
「夏休みは地獄でした。お父さんもいなくなったし、お母さんも人がかわったようにぴりぴりしてるし。それに旅行にもいけなくなったからすることも何もなくて」
「友達と遊べばいいでねえか」
「友達なんて……。ぼく、いじめられてるから」大地は告白した。「だからいつも漫画を読んだり描いたりして遊んでるんです。そう、夏休みも漫画を描いてちょっとだけ立ち直ったんです。漫画を描いてお父さんに見せるって約束だったから。だけど学校がはじまって、またいじめられて、もう何もかもいやになっちゃって……。それで……」
「それで、どうした?」
「それで……、あの……、落ちこんでるとき、近所のスケート場でその人に逢ったんです」
「屈斜路湖で待ってるって人か?」
「はい。それで信じられないかもしれないけど、その人ぼくが描いた漫画のキャラクターにそっくりだったんです。ぼくびっくりしちゃって。しかもその人が……、ホント驚きなんですけど、釧路川をカヌーで下るからきたかったらこい、っていうんです。お父さんといくはずだった釧路川のカヌー旅行に」
「ほう」ツナギの男は答えた。「すごい偶然だな。まるで運命だわ」
「そうでしょ? ぼくもそう思ったんです。これは運命なんだって! だから……、だからすぐにいくって答えました。きっとこれは運命なんだと思ったから。それで必死に準備して、今朝、早くに出かけたんです。だけど汽車に乗るお金が足りなくて、それでヒッチハイクしようと思って」
「なしてその男の人と一緒に屈斜路湖にいかなかったのさ?」
「自分は先にいくって。ぼくには後から一人でこいって。寝袋用意して。ぼく、よくわからないけど、何となくためされてるんだって思ったんです」
 自分がそんなふうに考えていたことに、大地は自分自身に驚いた。だけど今は本当にそうなんだと思う。自分はためされているのだ。寝袋を手に入れろ。屈斜路湖の空き地に一人でこい。さあどうする? おまえにできるか?
 大地はやった。まずは寝袋を手に入れた。そして今、屈斜路湖に向かっている。まだ道の途中だが、とにかく向かっている。お金が足りなくなっても。警察につかまりそうになっても。
「ああ、そのとおりだわ」ツナギの男はいった。「ためされてんのさ。その男の人がためしてるんでなくて、神様がな、ためしてんだわ」
「神様が、ですか?」
「そうさ。いつだって神様がためしてるんだ。一つ、また一つって宿題を出すみてえに。そんで出された方もそれに応える。そのくり返しで人間は成長していくんだわ」
 ツナギの男の言葉はむずかしく、頭では理解できなかった。だけど何となく伝わってくる。大地は小さく頷いた。
「なるほどな。話はわかった。したけど、ヒッチハイクで屈斜路湖をめざすっていうが、簡単でねえぞ。まだまだずっと先だし、夜になっても車さつかまらないってこともあるんだからな。わかってんのか?」
 大地は頷いた。だがそんな目に遭ったらと思うと、不安で身体が震えそうになる。
「仮に屈斜路湖にたどりつけたとしても、待ち合わせの場所にその男の人がちゃんと待ってるとはかぎらねえんだぞ。いくら運命だっていったって、実際は赤の他人なんだからな。その男の人だって、まさか小学生のおめえが、ホントにくるなんて思ってねえかもしんねえしな」
「だけど今日までは待ってるって……」
「わかったもんでねえさ。その男の携帯電話の番号は知ってんのか?」
「知りません。持ってないと思う」
「したら連絡はつかねえな。どうする? もしも待ち合わせ場所にその男がいなかったら」
 大地は答えられず、黙ってうつむいた。
「もしも男がいなかったら、おめえはたった一人で、知らない土地で夜を明かさなきゃならねえんだぞ。わかってんのか?」
 大地はうつむいたまま、うんともすんともいえずにいた。
「それでもいくか? その覚悟はできてるのか?」
 覚悟、と訊かれ、大地は緊張した。そして勇気を出して想像してみた。約束の空き地にいって、そこにクマみたいな大男がいなかったら……。
「おっかなくなったか?」ツナギの男が、大地の顔を覗きこんできた。「ここでやめるか。今帰れば、お母さんにもおこられないですむかもしれねえぞ」
 父が死んでからの母は、大地を起こすことなく朝早くに仕事に出かけていく。だからまだこの家出に気づいていないだろう。母がこの家出に気づくのは、今夜仕事から帰ったときだ。今帰れば、何事もなかったようにもとの生活に戻れる。今帰れば……。
「覚悟できてます」しかし大地はそう答えた。今こそためされているのだと思った。だから怖いけど、一歩目をふみ出すのだ。後悔したくなかった。
「ホントにか?」
「はい。ぼく絶対にいきます。だってこれは運命だから。運命なら逃げちゃ駄目だと思うし。だからぼく、もしおじさんが警察にいうっていうなら、逃げてでも……」
「乗れ」ツナギの男は軽トラックへとあごをしゃくった。
「えっ?」
「トウロまで乗せてってやる。トウロってわかるか?」
「ここですか?」大地は地図を広げ、『塘路』の地名を指さした。
 ツナギの男は老眼鏡をかけ、地図を覗きこんだ。「そうだ。国道391号に出たところだわ。そこなら車もつかまえやすいべ」
「ホントですか?」
 ツナギの男は薄い笑みを浮かべて頷いた。「ホントはアレキナイに帰るんだけど、サービスだわ」
 アレキナイはきっと『阿歴内』のことだろう。そこから『塘路』までは十キロ近くあるから、たしかに大サービスだ。
「そら、いくぞ」ツナギの男は運転席に乗って乱暴にドアを閉めた。「早くしろ。今日中に屈斜路湖にいくんだべ?」
 大地は軽トラックに駆けより、助手席に乗った。寝袋が入ったバックパックを強く抱えると、軽トラックはがなるようなエンジン音を響かせて走り出した。



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第23話「上尾幌へ」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」
第14話「天国へ。お父さんのところへ」
第15話「クマみたいな大男 ①」
第16話「クマみたいな大男 ②」
第17話「大地、寝袋をさがして釧路の街を走る」
第18話「大地、寝袋を手に入れる」
第19話「旅立ちの朝」
第20話「一歩目の勇気」
第21話「ヒッチハイク開始!」
第22話「逃亡」

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 列車が鈍い振動をともなって走り出した。唸りを上げ、少しずつ加速していく。
 大地はぜえぜえと肩を上下させながら、窓の外を見た。東釧路の駅が見る見る遠ざかる。大地はパトカーの位置を確認しようと、窓に顔をくっつけ、視線を『コープさっぽろ』の駐車場の方へと向けた。だが列車のスピードがどんどん上がり、あっというまに『コープさっぽろ』の駐車場は窓から消えた。
 徐々に息切れがおさまり、同時に胸の鼓動も落ちついていった。だがまだ不安だった。自分が列車に飛び乗るところをパトカーの二人に見られていたらと思うと、生きた心地がしなかった。
 突然、何者かに肩をたたかれ、身体の全部が心臓になったみたいにぎくりとした。大地はおそるおそる振り返り、その人を見上げた。列車の車掌だ。何の用だろう。早くも警察からこの列車に連絡が届いたのだろうか?
「な、な、何ですか?」つとめて平静をよそおったものの、声の震えはどうしようもなかった。「ぼく、べつに……あの」
「整理券、取ったかい?」
「……?」
「この機械から整理券を取るんだよ」車掌は微笑み、かわりに券を取って大地に手わたした。「はしっこに番号が書いてあるだろう。降りる駅でその番号のところにある運賃をはらうのさ」車掌は説明しながら、整理券ボックスの上の電光掲示板を指さした。
 大地はほっとしながら車掌に礼をいい、ドアの向こうの客車に入った。くたくたの身体をボックスシートに沈め、ふうっ、と深い息をついた。
 車掌にとがめられずにすんだことで、不安が薄れた。警官もまさかここまで追ってはこないだろうと思えてきた。すると勝利の喜びがふつふつとわき上がった。やったぞ、と大地は心の中で声を上げた。ぼくは逃げたんだ! 警官二人をまいたんだ!
 大地は興奮をかみ殺しつつ、車内を見まわした。お爺さんやお婆さん、女子高生や子づれの女の人などがまばらに座っていた。この人たちに、自分がどのようにしてこの列車に乗りこんだのかを教えてやりたい。こみ上げる笑いをおさえながら、大地はそう思った。
 気動車のエンジンがうるさく唸っている。列車はときおり警笛を鳴らしながら、ぐんぐんと進む。生まれてはじめて耳にする列車の音にわくわくしながら、大地は窓際へと腰をずらして外の景色を見た。新しいつくりの住宅が次々と現れては後方に遠ざかり、模型みたいに小さくなっていく。釧路の街を離れているんだ、と実感し、大地の身体はぶるっと震えた。
 アナウンスが間もなく次の停車駅『ムサ』につくと告げた。大地は急にまた落ちつかなくなった。その駅であの二人の警官が待ちぶせしていたらどうしよう……。
 やがて列車が武佐駅についた。大地はバックパックを強く胸に抱くと、頭を低くして身をひそめた。何人かの乗客が降りていく音が耳にふれた。大地は神経を研ぎ澄まし、乗ってくる者の足音を待った。足音は一つも聞こえなかった。それでもまだ安心できずに、しばらく同じ姿勢で耳を澄ましつづけた。やがて出発の笛が鳴り、列車が走りはじめた。
 大地は静かに顔を上げた。念のため車内を見まわし、本当に警官が乗ってきていないかたしかめた。大丈夫だ。乗ってきていない!
 大地はまた窓の外に目をやった。列車はあいかわらず住宅のわきを走っているが、さっきより荒れ地を走る時間が長くなっていた。それだけ街から遠ざかったのだ。
 大地はうきうきと車窓の景色を見ながら、摩周駅には何時頃つくのだろうかと考えた。釧路駅から摩周駅の切符は買えなかったけど、一駅先の東釧路駅からの切符なら七百四十円で買えるはずだ。バス代までは出ないけど、そこからヒッチハイクすれば、どうにか夕方には屈斜路湖につくだろう。
 安心したら眠くなってきた。考えてみれば今朝は早起きだったし、いろいろあってくたくただ。ただ寝すごしてはまずいので、目を閉じる前に、摩周駅には何時頃つくのか確認しておこうと思った。
「あの……すみません」大地は隣のボックスに向かい、週刊誌を読んでいる中年男に質問した。「摩周駅にはどれくらいでつきますか?」
「どこ?」中年男は週刊誌から目を離し、怪訝な目を大地に向けた。
「摩周です」
「摩周にはいかんぞ」
「いかない?」
「やあや失敗したもなあ。ぼく、この汽車は根室さ向かってんだわ」
 根室といえば、北海道最東端の納沙布岬があるところだ。大地がめざす摩周駅とはまったくべつの方角だ。
「まちがっちまったなあ。したけど次の上尾幌で降りれば、ちょうど釧路さ向かう汽車が停車してるわ。それに乗っていったん東釧路さ戻ればいい。そこで待ってりゃ釧網本線に乗りかえられるわ」男は週刊誌に目を戻しかけ、また大地を見た。「内地からかい?」
「えっ、あっ、はい。あの……東京から」
「そうかい。夏休みの旅行できたんかい。一人でえらいなあ。したけど大失敗だったね。まあ、それも旅の思い出だべや」
 男は大地をなぐさめるように明るく笑った。だが大地は落ちこんではいなかった。たしかに列車をまちがうなんて普通に考えたら大失敗だけど、その列車に乗ったからこそパトカーから逃げられたのだから、この場合は失敗とはいえない。 
 大地はバックパックから北海道地図を取り出し、膝の上で広げた。そこから根室本線をさがし、人さし指でなぞった。途中に『かみおぼろ』とひらがなでしるされた駅を見つけ、人さし指をとめた。同時に親指を釧路駅にあて、どれくらいの距離を進んだのかをたしかめた。約三センチ、計算すると、だいたい二十キロ離れたことになる。
 二十キロ。いって帰って四十キロ。時間にして一時間くらいだろうか。仕方なかったとはいえ、早く屈斜路湖につきたいのに、まったく馬鹿な時間をすごしてしまった。すべてはあのパトカーのせいだった。あいつらにつかまらなければ、今頃は屈斜路湖に向かう車に乗っていたかもしれないのだ。
 そういえばまた東釧路に戻るんだっけ、と大地はその問題に気づいた。あのパトカーがまだ付近をうろついていたらと思うと、また不安になってくる。
「あれ?」
 大地はあることに気づき、顔を地図に近づけた。上尾幌駅が屈斜路湖からさほど遠ざかっていないのだ。釧路から真横に移動しただけで、むしろ直線距離はちぢまったような気さえする。
 いけるかもしれないぞ……。
 大地は地図に人さし指をすべらせ、上尾幌から屈斜路湖につながる道をさがした。道はあった。しかも二つも。一つは上尾幌から『阿歴内』経由で北上し、『塘路』で国道391号に合流して釧路川沿いに屈斜路湖に向かうルート。もう一つは『阿歴内』の手前で右折して国道271号に入り、『中チャンベツ』で交差する地方道を左にまがって、標茶で国道391号に合流するルート。どちらをいっても、屈斜路湖にたどりつける。
 大地は全身をぶるっと震わせ、はやる思いで窓の外を見た。ヒッチハイクだ。上尾幌についたらヒッチハイクするぞ!
 深い山あいを走った列車が、ようやく上尾幌駅についた。大地は二百二十円の運賃をはらい、列車を飛び降りた。
 ホームには釧路駅方面に向かう列車もとまっていた。ちょうどこの駅ですれちがうらしい。大地が列車を降りて数秒後に、二台の列車はほぼ同時に走り出した。大地はしばらく遠ざかる列車の背中を見つめた。二台の気動車のエンジン音が遠くに消えると、あたりに物音はなくなった。風が木々を揺らす音や鳥の鳴き声だけが、静かに響いている。釧路とはちがう田舎町なのだと、駅の外の風景を見る前からわかった。寂しくて心細かったが、今の大地には屈斜路湖に向かう希望の方が勝っていた。
「よおし、やるぞ」
 大地は無人の駅舎を駆け抜け、上尾幌に降り立った。


つづく



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「きみ、何してるの?」
 パトカーから警察官が二人降りてきて、大地のもとへ歩みよってきた。一人は横幅のある四角い顔をした中年で、もう一人はやたらと背が高い男だった。
「ヒッチハイクか? どこさいこうとしてんだあ?」
 四角い顔が明るい声で訊いてきたが、もちろん大地の行為を奨励しているわけではなかった。声はおだやかでも、顔つきは厳しい。
「きみ、小学生だろ。学校はどしたの?」
「あの……」
「あっ?」
「あの……、その……」声が震えた。声だけでなく、全身が震えている。
「まあいいわ。とにかくパトカーさ乗って。詳しい話は交番で聴くわ」
「夏休みです」どうにかこうにか声が出た。「夏休みを利用して、お祖母ちゃんのうちにいくんです」
「夏休みはとっくに終わったべや」
「終わってません。まだ夏休みです。ぼく、その……内地からきたから。内地は八月いっぱい夏休みなんです」
「乗りなさい」四角い顔がパトカーへとあごをしゃくった。
「どうして? 何で駄目なんですか? ぼくお祖母ちゃんのうちにいくだけなのに。それっていけないことなんですか?」
「お祖母ちゃんのうちにいくのはいいけど、学校をさぼったら駄目だべや」
「だからまだ夏休みなんですって。あっ、そうか、おまわりさん知らないんですね。内地の小学校は八月いっぱい……」
「下手な嘘はやめれ」背の高い方の警官が、大地の言葉を制した。「そんな嘘はすぐにばれるわ。内地の子は内地なんて言葉知らねえんだから」
「ほれ、わかったら乗れや」四角い顔が大地の腕をつかんだ。
「いやだ」大地は両腕を力まかせに振りまわし、警官の手から逃れた。「ぼくホントに内地から……、東京からきたんです。それで夏休みを利用してお祖母ちゃんちに……」
「いいから乗るんだっ!」四角い顔がついにどなった。「きみがいうことが本当だとしても、小学生がヒッチハイクなんかしていいわけないべや」
 大地の身体はびくんとかたまり、それで終わりだった。大地を後部座席に乗せると、二人の警官はパトカーを走らせた。


 どうしよう……。
 パトカーの後部座席で震えながら、大地は自分がこれからどうなってしまうのかと考えた。まずは交番につれていかれ、名前や住所を訊かれるだろう。もちろん電話番号も。母に連絡がいき、家出がばれ、それでこの旅はおしまいだ。
 運転席のわきのデジタル時計を見た。八時五分。普段なら母はもう仕事に出かけている。ラッキーだ、と大地は喜びかけたが、すぐに思い直した。警察はそんなに甘くはない。当然、母の携帯電話の番号を訊いてくるだろう。持っていない、と嘘をついたとしても、それで許してくれるはずがない。親が駄目ならばと、かわりに学校に連絡するに決まっている。
 どっち道、旅は終わり。それどころかずる休みもばれ、母や先生に、学校にいけ、と強要される。
 冗談じゃない。今さら学校になんていけるもんか。
 逃げるんだ……。
 大地はひそかに決意した。幸いパトカーは渋滞につかまっているらしく、歩くよりのろい速度で動いている。気づかれないようドアを開けて外に出れば、運動音痴の自分の足でも逃げられるかもしれない。
 大地は寝たふりをした。警官を油断させ、少しでもすきが見えたら、そのとき逃げ出すつもりだった。
 覚悟は決めたが、やっぱり身体は震えた。逃げるのに失敗したらと思うと、怖くてたまらなかった。だけどこのまま何もしなければ、交番につれていかれるのだ。やるしかない。やるしかないのだ。
 大地は前の二人に気づかれないよう、小さく深呼吸した。震えは完全にはとまらなかったが、いくぶんかはましになった。大地はバックパックを抱える手に力を入れた。薄目を開け、二人の様子を見る。駄目だ。まったくすきがない。
 大地は辛抱強くチャンスを待った。目を閉じていると眠くなってくるが、そのたび歯をきつくかんで眠けと戦った。絶対にいくんだ、と心の中で強く思った。絶対に、絶対に屈斜路湖にいくんだ!
 不意に前の二人が、あっ、と同時に声をもらし、直後にパトカーのサイレンを鳴らした。何事かと思い、目を開けかけたが、大地は本能的に寝たふりをつづけた。耳だけを強く働かせ、何が起きたか考える。何者かを追っているらしいと、車内の緊張感からわかった。
「そこの原付、とまりなさい」
 四角い顔の警官の声が聞こえた。やっぱり何かを追っているのだ。ゲンツキを追っているのだろう。ゲンツキって何だろう。
 パトカーがとまり、ドアの音が二つ響いた。どうやら二人とも外に出たようだ。大地はそっと目を開けた。二人の警官がスクーターに乗った若者に話しかけているのが、フロントガラス越しに見えた。ゲンツキとはスクーターバイクのことらしい。
 きっとヘルメットをかぶっていなかったんだ、と大地は思った。ヘルメットをかぶっていないオートバイが街中でつかまっている光景を、大地は何度か目にしたことがあった。
 だがそんなのはどうだっていい。大事なのは、今が逃げ出すチャンスだということだ。
 大地は息を殺し、警官が二人とも向こうを向いているのを確認してから、音をたてないよう慎重にドアを開けた。すぐにも走り出したい衝動をおさえ、ドアをそっと閉める。ここでもう一度、大地は警官を見やった。二人ともまだこちらに背中を向けていた。自分と二人の警官との距離は十メートル。
 よし、いける……。
 大地はバックパックを背負うと、全力で駆け出すべく息を吸った。だがとっさにふみとどまった。走れば距離を稼げるけど、駆け足の音がするから、二人に気づかれるかもしれない。
 早く遠くに逃げたい思いをかみ殺し、大地は静かに歩きはじめた。ときどき振り返り、警官が自分に気づいていないかを確認する。心臓が破裂しそうなくらいに高鳴った。歩いているのに、走るのと同じくらい息が切れた。
 パトカーから三十メートルくらいの位置まで遠ざかっていた。二人の警官はあいかわらずスクーターの持ち主にかかりきりで、こちらに気づいていないようだ。だけどまだ安心できなかった。何しろ敵は警察、追いかけっこのプロなのだ。もっともっと遠くにいってからじゃないと安心できない。
 反対車線の車が渋滞しているのが目に入った。あの車の列を利用しようと思いつき、大地は道路をわたった。わたりきったところでまた振り返った。パトカーは見えない。つまり、向こうからもこちらの姿が見えないということだ。計算どおり、渋滞の車が壁になったのだ。やったぞ、と大地は心の中でガッツポーズをした。うまい具合に警官の目から逃れられたぞ!
 もうどんなに駆け足の音をたてても大丈夫だ。大地は猛然と走った。
 向かう先に『コープさっぽろ』の看板が小さく見えた。さっき太一のオートバイに乗っているときに見た、大型のスーパーマーケットだ。どうやら釧路の街へと逆戻りしているらしい。だがかまわずに走りつづけた。屈斜路湖が遠ざかってしまうが、それについては後で考えればいい。今は逃げるのだ。まずは絶対に安全な場所まで逃げるのだ。
 だいぶ遠くまで逃げたと思うが、まだまだ安全とはいえなかった。もっと遠くまでいかなければ安心できない。だけどもうバテバテだった。息切れがひどくて吐きそうだし、横っ腹も痛む。大地はいったん走るのをやめ、両手を膝に置いて、ぜえぜえと息をした。
 そのとき、パトカーのサイレンが背中に響いた。大地はぎくりと振り返った。渋滞の車の列の後方で、パトカーの赤色灯の光がぐるぐるまわっているのが見えた。その光はまだかなり遠くにあったが、渋滞の車を次々と追い越して確実にこちらに迫っている。大地を乗せていたパトカーだ。スクーターの取調べを終えて、大地の逃亡に気づいたのだ。
 大地は悲鳴を上げながらふたたび走り出した。脚がもつれて転んでしまったが、すぐに起き上がった。痛む脚で走りながら、ちらちらと後方を振り返った。車が道をゆずり、パトカーは堂々と道路の真ん中を走っている。大地は必死に走った。走って走って走って走った。だけど追いつかれるのは時間の問題だった。サイレンを鳴らすパトカーにスピードでかなうわけがない。
『コープさっぽろ』がすぐそこだった。大地は迷わず駐車場に入り、建物の入り口をめざした。このスーパーマーケットに入って警官をまこうと考えたのだ。
 大地はまた振り返り、パトカーの位置を確認した。思わず、うわっ、と声がもれるほどに近くまできていた。だけどまだ気づいてはいないようだ。気づいていればパトカーも駐車場に入ってくるはずだ。今はまだ道路を走っている。
 駐車場をつっ切りつつ、大地は違和感をおぼえていた。その正体に気づき、愕然とした。広い駐車場に車が一台もとまっていないのだ。そうか、まだ朝早いから開店していないのか!
 大地はあせった。あせりながらも走りつづけ、建物の裏をめざした。そこで息をひそめていよう。パトカーのサイレンが聞こえなくなるまでずっと……。
 だけどもうあの警官、ぼくに気づいてるんじゃないか……。
 今にもパトカーがサイレンの音とともに駐車場に入ってくる気がして、大地の心臓は破裂しそうなほどにばくばくとしていた。もう後ろを見る勇気はなかった。振り返ってみてパトカーが駐車場に入っていたらと思うと、大地は怖くておしっこをちびりそうになる。今もちびりそうだった。実際、パトカーが駐車場に入っていたら、ちびるどころか、もらしてしまうだろう。
 ふと駐車場のフェンスの先に目をやると、そこに小さな建物があった。レンガ調の外壁に『東釧路駅』と小さく書いてある。
 大地は興奮した。
 駅だ! JRの駅だ!
 大地は駅舎へと進路をかえ、走るスピードを上げた。俄然、力がみなぎった。これで警官をまける。あの駅から列車に乗って摩周駅方面に向かうのだ。自分が持っているお金でいけるところまで。その場所からヒッチハイクをすればいい。
 問題は列車がすぐにくるかどうかだ。摩周駅に向かう釧網本線の便数はそう多くはないだろう。すぐに列車がこなかったらどうすればいい? 列車を待つ? だけどその間に警官に気づかれたら? 
 そんな事態をおそれつつも、大地は走りつづけた。あいかわらずパトカーのサイレンが吐きけがするほどのぶきみさで鳴り響いている。その音はすでに駐車場に入ってきているような感じもしたし、まだ道路を走っている感じもした。
 東釧路駅が近づき、同時に駐車場と駅舎をへだてる緑色のフェンスが目に入った。大地は自分でも驚くほどの身軽さでそのフェンスをよじ登り、向こう側へと飛び降りた。さっき転んだとき痛めた足がずきんとしたが、かまわず走った。駅員のいない駅舎を駆け抜け、
ホームに向かう。
 あっ、と大地は声をもらした。列車だ。銀色のワンマン列車がホームにとまっている!
「待ってえ!」大地は息も切れ切れに声を上げ、右手を振って車掌に呼びかけた。「お願い、待ってくださあい!」
 大地は線路をわたり、島式のホームへの階段を駆け上がって、列車に飛び乗った。



つづく



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「よし、じゃあヒッチハイク開始だ」太一はウエストポーチからブック型の地図を取り出した。「ここから屈斜路湖にいくとなると……、国道391号だな。よし、乗れ」
「えっ?」
「こんな街中のごちゃごちゃしてるところじゃ車はとまってくれないって。もっと町はずれの街道までいかないと」
「オートバイに乗せてくれるの?」
「ああ。おれが記念すべきヒッチハイクの一台目になってやるって。っていっても町はずれまでだけどな」
「あの……、和商市場は?」
「そんなのどうだっていいって」
 太一は荷物の中から赤いヘルメットを出して大地にわたした。
「こんなこともあろうかと思ってメットよぶんに持ってきたんだ。っていうか、ホントはナンパ用だけどな」
 太一はおどけながら愛車にまたがり、よし乗れ、と後部シートをたたいた。
 大地はおどおどと後部シートにまたがると、ヘルメットをかぶった。胸がどきどきしてきた。怖い。だけどわくわくする。オートバイに乗るのは生まれてはじめてだ。
「ステップかがあるからそこに両足のせて。届くか?」
 はい、と答えたつもりだったが、緊張で声がかすれた。
「いくぞ。振り落とされないようにちゃんとおれの腹につかまってろ」
 大地はいわれたとおり太一の腹にしがみついた。かたい背中だな、とぼんやり思った。かたくて、大きな背中だ。
 エンジンがかかった。アイドリングの響きが全身に重く伝わってくる。いつかテレビのニュースで観た、NASAのロケットの発射シーンを思い出した。
 不意にオートバイが走り出し、大地の身体は後ろに吹っ飛ばされそうになった。全身がかっと熱くなり、胸のどきどきが激しくなった。大地は太一にしがみつく両手をぎゅっとかためた。それでも全身が後方に持っていかれそうになる。必死にしがみつく。生まれてはじめてのオートバイを楽しむ余裕はない。
 太一の背中に隠れて景色はよく見えないが、オートバイはどうやら釧路駅の駅前広場をとおりすぎて、街の中心をはずれたようだ。信号が赤になり、オートバイは減速した。前につまる車のわきをすり抜け、一番前に出た。
「大丈夫か?」太一が振り返り、ヘルメットのシールドを上げた。「怖くないか?」
 少し、と答えたつもりが、心臓がばくばくいっていたため声にならなかった。身体もがくがくと震えている。
「背中にしがみつきながらでも、ちょっとは前を見た方がいいぞ。何も見てないとよけいに怖いから」
 信号が青になった。
 たった今気遣いを見せたくせに、太一は大地を振り落とさんばかりにオートバイを急発進させた。だけどはじめに走り出したときよりは怖くなかった。大地は太一の背中にしがみつきながら、後ろを振り返ってみた。同じ信号につかまっていた車たちが置き去りになり、見る見る遠ざかっていく。
 大地は太一のアドバイスどおり、背中から顔を出して前方を見た。オートバイはちょうど橋に差しかかるところだった。橋の名前はわからないけど、その下を流れる川はおそらく釧路川の本流だ。
 川岸には何隻もの漁船がとまっている。そのうちの一隻がのろのろと離岸していくのが見えた。大地はその船に向けて手を振りたい衝動に駆られた。おおい、と声を上げて片手を大きく振ったらどんなに痛快だろう。だが太一から手を離すのは危険だし、それにさすがに恥ずかしい。どうしようかと迷っているうちに、オートバイは橋を渡りきり、漁船は背後に消えていった。
 今や恐怖心はすっかり消えていた。大地は自分がオートバイに乗って風と一体になっていることが誇らしくてたまらなかった。この雄姿をクラスの連中に見せてやりたい。
 信号が赤になって車が次々とスピードを落とすと、オートバイはわきをすり抜けて先頭にいく。右手に広大な駐車場を抱えた『コープさっぽろ』が見えた。大型のスーパーマーケットだ。
「もうすぐだぞ」太一が振り返った。「我慢できるか?」
 我慢も何も、大地はオートバイを降りたくなかった。このままこのオートバイに乗って、太一と一緒に屈斜路湖までいきたいと思う。
 信号が青になり、オートバイは走り出した。先頭に立っていたため、大地を乗せたオートバイはすぐさま風と一体になった。
 大きめの交差点をすぎて百メートルほどいったところで、オートバイはとまった。歩道のわきに、草がぼうぼうの土地が広がっている。市街地からははずれたようだ。
「ついたぞ」太一はヘルメットを脱ぎ、振り返って大地を見た。「降りろ。ゆっくりだぞ。ゆっくり。危ないからな」
 大地はやんちゃっぷりを見せつけてやろうと、太一の忠告を聞かずにオートバイを飛び降りた。その瞬間、両足がじんときて膝がぐにゃりと折れた。
 ヘルメットとバックパックを身につけたまま仰向けに倒れた大地を見て、太一はけたけたと笑った。
「だからゆっくりっていったんだって。バイク乗ってる間はさ、足に重力がかからないから地面に足つけたとたん、じんとくるんだ」
 大地は照れ笑いしながら起き上がった。ヘルメットを脱ぐと、視界が一気に広がった。空がすっかり晴れわたっていた。まっすぐにのびる道の先には丘陵が横たわっている。
 太一がオートバイを降り、大地の視線を追ってその丘陵を見つめた。
「いいか、ここからずっと国道391号線がつづくんだ」
「この道をいけば屈斜路湖につくんですか?」
「ああ。つくよ」
 大地はツバをのみ、丘陵を見つめる目に力をこめた。あの丘の向こうに屈斜路湖がある。クマみたいな大男が待つ、屈斜路湖が……。
「正確にいうと弟子屈の市街で国道243号に合流するんだけどな。とにかくこの道に立って親指立ててれば誰かがつれていってくれるさ」
 そうだ、今からヒッチハイクをするのだ、と思い出し、大地はにわかに落ち着かなくなった。全身に寒けが走り、ぶるっと震えた。
 車が五台ばかり連なってやってきて、かん高い音を発して二人のわきを走りすぎた。風圧が髪を揺らし、二人は同時に頭に手をやった。五台の車の後、十秒ほど静寂がつづいたが、また車がやってきて丘陵に向かって走っていった。
「結構、車とおるじゃん」太一は遠ざかる車の背を見送りながら満足そうにいった。「この分ならすぐに車に乗れるだろ」
 車がとまるまで一緒にいてくれるのだろうか。もし太一がこのまま自分を置いていってしまうつもりだったら、と思うと大地は心細くなる。
「ヒッチハイクのやり方わかるか?」
「こうですか?」大地は道路のわきに立ち、やってくる車に向けて親指を立てた。
「もっと手をのばした方がいいな」
 大地は親指を立てた左腕を、道路に向けて真っすぐにのばした。
「いいんじゃねえ? うまいよ」
 太一にほめられ、大地は得意げになった。ちょっぴりわるのりして、つき立てた親指を道路に差し出しつつ、ヘイカモン、とおどけた声を出した。太一がおかしそうに笑っていたので、大地は心底うれしくなり、さらにふざけた。ふざけつづけていれば、太一もおもしろがってしばらくここにいてくれるかもしれない。
「とにかくそうしてれば、いずれ車がとまるって。それで運転してる人に、屈斜路湖までいきたい、っていうんだ。うまくいけば、一台目の車が屈斜路湖までいくかもしれないぞ」
「ホント?」
「ああ。逆に五台も六台も乗りつぐことになるかもしれないけどな」
「そのときはどうすればいいの?」
「同じだよ。とにかく、屈斜路湖までいきたい、っていいつづければいいんだ。そうしてりゃ、夕方までには屈斜路湖につくって」
 大地はごくりとツバをのんだ。大丈夫だろうか。本当に屈斜路湖までいけるだろうか。
「じゃあ、おれはいくわ」
「えっ?」大地はぎくりとした。「いっちゃうの?」
「ああ。これから標津の方にいってサケバイやるんだ」
「サケバイって?」
「サケの加工場でさ、住みこみのバイトするんだ。それを略してサケバイっていうらしいんだけど、羅臼のキャンプ場で逢った人からメールがきてさ、一緒にやらないかって」
「どんなことするんですか?」
「サケの腹からイクラ取り出す仕事とかいってたよ。おれもよくわかんないけど、とにかくやってみるか、って。金も必要だし、それにこの旅では何でも経験してやろうって考えてっから。だからさ、大地もがんばって屈斜路湖にいけよ」
 大地は返事できずに、視線を落としてオートバイのタンクを見た。炎のようなオレンジ色のタンクが朝の光を反射させている。
「そんな顔すんなって」太一はやさしく笑った。「大地に逢えて楽しかったよ」
「ぼくもです」大地は太一を見上げた。だが目が合うと寂しさが戻ってきて、大地はまたしゅんとうつむいた。
「やっぱりびびるか?」太一が訊いてきた。「びびるよな、そりゃ。だけどな、大地。それが一歩目なんだよ。みんな一歩目はびびるんだ」
「太一さんもびびりますか?」
「さっきもいっただろ。びびりまくりだって」太一はいった。「おれだけじゃないよ。みんなびびるんだって。だけどそれはわるいことじゃないんだ。ましてや弱虫なわけでもない。いくかいかないか、やるかやらないか、勝負に出るときはみんなびびるもんなんだ。それで勝負に出たやつだけがでっかいものを手に入れる」
「でっかいものって?」
「それは自分でたしかめろよ」太一はにかっと笑った。「ほしいだろ? でっかいもの」
「はい」
「よし、いいぞ大地。それじゃ記念にこいつをやるか」太一はジーンズのポケットに手をつっこみ、取り出したものを大地に見せた。
「百円玉?」
「ただの百円玉じゃないぞ。おれのお守りだ」太一はつまんだ百円玉を見せびらかすように一、二度振った。「いいか。いくかいかないか、やるかやらないか、迷ったときにそいつを投げるんだ。サッカーのコイントスみたいにな。それで表が出たらいく。つまり一歩目をふみ出す。裏が出たら、いかない。やらない。一歩目をふみ出さない」
 太一は百円玉を大地に手わたし、投げてみろ、とあごを動かした。大地は百円玉を頭上に投げ、落ちてきたところを両手で受けとめた。
「開いてみな」
 大地は頷き、両手をそっと開いた。
「表だな」太一は満足げに笑った。「いいか。その百円玉をずっと持っとけ。それで何か迷うことがあったら今みたいに投げるんだ。必ずいい答えを出してくれるから。何たっておれのお守りだからな」
「いいの?」
「ああ。おれはもうそいつに頼らなくても自分で答えが出せるからさ。あっ、その百円でジュースとか買ったら駄目だぞ。ちゃんと自分のお金とわけてしまっとけよ」
「はい」大地はもらった百円玉を、今持っているお金とべつのポケットにしまった。
「よし」太一はヘルメットをかぶり、エンジンをかけた。「じゃあな」
「ありがとう」
「絶対にいけよ」太一はそういうと、大地の返事を待たずにオートバイを走らせ、きた道を引き返していった。


 オートバイが遠く消えていったあたりを、大地はしばらく見つめていた。置いてけぼりをくらったような寂しさが、胸のあたりをかきむしる。
 絶対にいけよ……。
 太一の最後の言葉が耳に残っている。絶対にいけよ。そうだ、絶対にいくんだ。屈斜路湖へ。大男が待つ空き地へ。その旅が今はじまったのだ。
「はじめの一歩目だ」
 大地はつぶやきながら、太一との思い出をかみしめた。楽しい時間だった。そして大地にとって太一はヒーローだった。あんなお兄さんがいたらなあ、とうっとりと想像した。
 トラックが爆音を上げながらやってきて、大地に風圧をお見舞いした。大地は我に返った。そうだ。ヒッチハイクするんだ……。
 大地はやってくる車に向けて、親指を立てた手を掲げようとした。だが手が思うように動かない。
 車が三台連なってやってきて、目の前をとおりすぎていく。ドライバーが興味深そうにこちらを見ていた。あの子何してるんだろう。そんなふうにその顔は語っていた。ただつっ立っているだけでそんな目で見られるのだから、ヒッチハイクのポーズなんて取ったらどんな顔をされるだろう。やっぱり自分にはできない。だいたいヒッチハイクって法律違反じゃないのか。
 絶対にいけよ……。
 太一の声が聞こえた。そうだ。いくんだ。何が何でも、屈斜路湖にいくんだ……。
 大地は道路を鋭く見た。白い乗用車が向かってきていた。ドライバーがこわもてだったのでまたひるみかけたが、インフルエンザの予防接種を受けるような思いで、えいっ、と手をのばした。
 車はスピードをゆるめずとおりすぎた。大地は何となくほっとして息をついた。車はとまらなかったけど、とりあえずはヒッチハイクのポーズを取れたことに満足していた。
 また車の波がやってきて、大地は身がまえた。左手の親指を立て、その手を道路に向けてのばした。左手に意識が集中する。胸がどきどきと音を立てる。車が近づいてくる。大地は思わず目をつぶった。
 車の波は背後へと走りすぎていった。一台もとまってくれなかった。風圧と排気ガスの匂いだけが、むなしくあたりに残った。
 駄目じゃん……。
 その場にしゃがみこみ、歩道にのびる電柱の影に目を落とした。影はだいぶ短くなっている。視線を上げると、いつのまにか太陽は空の高い位置に達していた。
 今、何時だろう。
 時間が気になると同時に、母が気になった。今頃どうしているだろう。心配しているだろうか。哀しんでいるだろうか。それとも怒っているだろうか。仕事は休むだろうか。それとも出かけるだろうか。きっと出かけるだろう。こんなときでも生活のために……。
 目の前を白いバンがとおりすぎ、大地ははっとした。やらなきゃ、とつぶやきながら立ち上がり、ヒッチハイクのかまえを取った。ちょうど向こうから車の群れがやってくるところだった。
「お願い、とまって」大地は声に出していうと、左手に力をこた。だがどの車もとまるそぶりを見せない。一応はこちらを気にかけるものの、とまろうとはしない。
 また車の波がとだえた。百メートルほど向こうにある交差点の信号が赤になるたび、車がとだえるらしい。
 大地はかまえていた左手をだらんと下げ、重いため息をついてしゃがみこんだ。
 ホントにヒッチハイクなんかで屈斜路湖につけるのかなあ……。
 太一は簡単に車がとまるっていっていたけど、大地にはとてもそう思えない。自分のために車がとまってくれる光景がまったく想像できない。
 交差点の信号が青になり、車が走り出した。大地は立ち上がり、ヒッチハイクのかまえを取った。だが車はとまってくれるどころか、むしろスピードを上げて大地の目の前を走りすぎていく。
 不意に一台の車がスピードをゆるめ、ウィンカーを出した。車は大地に向かってきて、ゆっくりととまった。だけどその車は大地が待ち望んでいた車とはちがっていた。
 パトカーだった。


  つづく


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第20話「一歩目の勇気」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」
第14話「天国へ。お父さんのところへ」
第15話「クマみたいな大男 ①」
第16話「クマみたいな大男 ②」
第17話「大地、寝袋をさがして釧路の街を走る」
第18話「大地、寝袋を手に入れる」
第19話「旅立ちの朝」


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「運命……?」
「そう。運命」
 運命。その言葉が心に引っかかった。そうだ、あのときもそう感じた。クマみたいな大男と出逢ったときも。だから赤の他人にもかかわらず、一緒に旅行をしようと思ったのだ。
「マジ運命だって」オートバイ乗りはくり返した。「いくしかないって」
「でもお金ないから」大地はうつむいた。いくら運命だからといって、現実には勝てない。
「ヒッチハイクすりゃいいじゃん」
「えっ?」
「ヒッチハイクだよ。知ってるだろ?」
「知ってますけど、無理ですよ」
「どうして? 簡単だって。こうやって、車つかまえればいいんだから」オートバイ乗りは左手の親指を立て、ヒッチハイクのかまえをしてみせた。「けっこういるんだぜ。ヒッチハイクで旅してる人。おれもキャンプ場で何人かのヒッチハイカーと話したけど、わりと簡単に車とまってくれるみてえよ」
「だけどぼく小学生だから」
「関係ないって。っていうか小学生だからこそいいんじゃねえ? 哀愁そそる、っつうか、応援したくなる、っつうか」
 大地は自分がヒッチハイクで屈斜路湖をめざす姿を想像してみた。駄目だ。どうしたって失敗するに決まっている。ただ失敗するだけならまだしも、わるい人の車につかまってへんなところにつれていかれたら、どんな目に遭わされるかわからない。逆に警察に見つかってもアウトだ。いや、警察に見つからなかったとしても同じことだ。子どもがヒッチハイクなんかしていたら、きっと誰かが警察に連絡するにちがいない。
「やっぱりできませんよ」
「だけどお金ないんだろ? だったらもうヒッチハイクしか手はないって」
「でもぼくもういいんです。帰ります」大地はいった。ヒッチハイクと聞いてから、急にこの家出に罪悪感をおぼえはじめた。取り返しのつかない事態になりそうな気がする。
「それでいいのかよ?」オートバイ乗りはちょっぴりきつい口調でいった。「いきたくねえの? 屈斜路湖」
 もちろんいきたい。だけどやっぱり家出はよくないんじゃないかと思う。ましてやヒッチハイクでいくなんて絶対にヤバい。普通に列車やバスでいくのだって大冒険だと思っていたのに、ヒッチハイクで屈斜路湖にいくなんて考えただけでも身体が震えてくる。
「まあ、わかるけどな。怖いの」オートバイ乗りの口調からきつさが消えた。「誰だって一歩目をふみ出すってのは、びびるからな。おれだってびびったもん、一歩目はさ」
「一歩目って、旅のはじまりですか?」
「旅のはじまりっていうか、おれの場合はこいつ手に入れるために動き出したときかな」
 オートバイ乗りは愛車のタンクに右手をふれた。炎のようなオレンジ色に『KAWASAKI』の文字が入っている。
「カヤサキ?」
「ちがうちがう。カ・ワ・サ・キ。『カワサキゼファー400』ってんだ」オートバイ乗りは大地に笑いかけ、愛車のシートにまたがった。「おれの相棒。っていうか命だな。こいつに乗ってよ、今おれ日本一周してんだ」
「すごい」
「すごくねえって。今どき日本一周なんて」
「すごいですよ」大地は心からいった。「日本一周なんて、ぼくには考えられませんよ。あとどれくらい走ったらゴールですか?」
「まだまだだよ。スタートが新潟で時計まわりだからな」
「じゃあまだ半分いってないですね」大地は頭の中に日本地図を描いた。
「四分の一もいってねえって」オートバイ乗りは苦笑した。「でももう三カ月経ってんだけどな。旅立ってから」
「三カ月も旅してんですか? だけど、あれ? 学校は?」
「ああ、学校かあ」オートバイ乗りは、いたずらがばれた子どものような顔をした。「さっき高三っていったっけ。あれさ、いってたら高校三年って意味で、じつはおれ高校やめてんの。いろいろあっていきたくなくなっちゃって、一年の終わり頃から不登校になって、いつのまにか退学みてえな感じ?」
「どうして?」
「まあ、いろいろさ。部活で仲間とトラブって、部のやつらからハブられて、そんで部活やめてさ。あっ、部活ってバスケ部な。バスケット。わかるだろ?」
「はい」
「そんでそのバスケ部やめて、まあいっときは平和な生活になったんだけど、そのうち部活以外の連中からもシカトされるようになって、それで学校にいづらくなって……。そんな流れかな。で、学校にもいかなくなって、気づいたら半年くらいずっとヒッキーやってた」
「ヒッキーって引きこもりのことですか?」
「ああ。何かもう人と接するのが怖くなっちゃってさ。わかんねえだろうけどな。マジ、すげえ怖いんだぜ、シカトされるのって。怖いっていうか、気持ちわりいていうか。ハンパねえんだって。マジ、トラウマよ。あっ、トラウマってわかんねえか」
「シカトって、無視ですか?」
「そう。最低だと思わねえ? そんなことするやつって」
「あの、ぼくも」大地はすがるような目をオートバイ乗りに向けた。一瞬ためらった後、助けを求めるように言葉をぶつけた。「ぼくもいじめられてるんです。学校で」
「そうなのか?」
 大地はこくりと頷いた。父にさえいえなかった話なのに、吐き出してしまうと何となく心が軽くなった。
「シカトされてんの?」
「それはないけど、暴力とか……、いろいろ。それで学校いかなくなって……」
 そういえば、学校にいかなくなってから今日で四日目だ。担任の木村先生には風邪だといってあるけど、そろそろ疑いはじめる頃だろう。少なくともアイスホッケー部の連中は、不登校のはじまりだと気づいているはずだ。
「そうか、つらいなあ。うん。つらかったよなあ」
 オートバイ乗りはまるで自分が心を痛めたかのようにしみじみといった。大地はぐっときて、つい涙がこぼれそうになった。
「それで学校いかなくなって、今度は家出か」
 大地はこくりと頷いた。
「さっきいってた、クマみたいな大男って人に誘われたから?」
「それもあるけど、お母さんもぼくに冷たいし。お父さん死んでから、ぴりぴりしてて。だけどやっぱりよくないですよね? 家出なんて」大地はオートバイ乗りを見上げ、その目を覗きこんだ。そうだね、といってくれたら、すぐにでも家に帰ろうと思った。
「だけど、その家出で今の自分の環境をかえてやろうと思ってるんだろ? だったらつづけた方がいいって。だって三、四日したら家に帰るんだろ?」
「今日を合わせて五日の予定です」
「だったらいいじゃん。お母さん心配するだろうけど、それで気持ちもかわるかもしれないし。荒療治だけどさ、家出して親と対決すんのも、ときには必要じゃねえ?」
「でも……」
「このまま不登校になって引きこもるよりはずっといいって」
 大地は黙ってうつむいた。
「ここで家に戻ったら、引きこもりになるだけだろ? ちがうか?」
 大地はうつむいたままの首を少しだけ縦に動かした。たぶん、引きこもるだろうと思う。
「外の世界にはさ、きみが想像できないようなすげえもんがさ、マジでごろごろ転がってっから」
 そうなのだろうか。本当に、すごいものがごろごろ転がっているのだろうか。だけとすごいものって何? わからない。わからないけど、それを見つけたら、何かがかわる気がする。
 やっぱりいきたい!
 だけどお金が足りなくなった今、家に戻るしか道はないのだ。ヒッチハイクすればいい、とこのオートバイ乗りはいうけど、知らない人の車に乗るのはやっぱり怖い。
「一度引きこもっちゃうとさ、抜け出すのきついよ。長引けば長引くほどヤバいね。おれは半年くらいで抜け出したからまだよかったけど、それでもかなり苦労したからね」
「どうやって抜け出したんですか?」
「そんなの一言じゃ説明できねえって」オートバイ乗りは複雑な笑みを浮かべた。「だけどそうだなあ、まあ、おれの場合、このままじゃヤベえって気持ちがずっとあったからよかったんじゃねえの? 部屋でゲームばっかしてたけど、ときどきネットで何かできることのヒントになるものさがしてたから」
「見つかったんですか?」
「ネットなんかで見つかるわけねえって」オートバイ乗りはいたずらっぽい笑みを大地に向け、その目を一度空に向けてから、急に笑みを消した。「……っつっても、おれの場合、もしかしたらネットがきっかけになったのかもなあ。いろいろ見てるうちにさ、何か知らない人のブログでバイクで旅してるってのがあって、何となくそれが引っかかったのかもしんねえな。心ん中にさ。まあ、それ見てすぐに動いたわけじゃなかったけど、たぶん、それがあったから今バイクに乗ってんじゃねえかなって思う」
 オートバイ乗りは、うんうん、と小さく口にしながら、愛車のタンクに手をふれた。
「それで日本一周はじめたんですか?」
「まあそうだね。っつうか、さっきもいったけど、すぐに動いたわけじゃないけどね。まあその後もしばらくぐだぐだやってて、でも結局バイクだあ、ってなってさ。そんで動きはじめたって感じかな。そしたら何かやたら燃えてきたけどね」
 そういってにかっと笑うオートバイ乗りの顔が眩しく見え、大地は本気でうらやましいと思った。
「だけどそう簡単な話じゃないんだって。まずはバイクの免許取らないとならないだろ? だからまずはバイトさ。ファミレスでさ、皿洗いのバイト」
「皿洗いですかっ? ホントにっ?」
「あ、ああ。どうした? でかい声出して」
「ぼくも皿洗いのアルバイトしてたんですよっ!」
「マジかよ? 小学生なのにか?」
「はい。あの、お父さんの店で」
「うおおっ。すげえな。お父さん、店やってたのか?」
「はい。食堂」
「マジで? へえ。だけどすけえ偶然じゃねえ? 同じ仕事なんてさ。同業者っていうんだ、そういうの」
「ドーギョーシャ……?」
「そう。同業者。仲間だ、仲間」
 オートバイ乗りはゆかいそうに笑いながら大地の右手をつかみ、強引な握手をした。大地も何となくうれしくなり、その手を握り返してげらげら笑った。
「……っつうかさ、おれたち何か、状況似すぎじゃねえ?」
「似てますか?」
「似てるって。マジ、似すぎだろ。登校拒否児仲間だしよ。そうだ、名前何ていうの?」
「大地です」
「そうか。おれは太一だ。っていうか名前も似てねえか? ダイチとタイチって」
 二人は、おお、と声を上げながらふたたび握手し、げらげら笑った。笑うと気持ちよかった。そういえば、こんなふうに笑うのはいつ以来だろう。
「それで何の話してたんだっけ? そうだ。そんでバイトして給料ためて教習所に入ったんだ」
「キョーシュージョ?」
「免許を取るための学校さ」
「免許は取れたんですか?」
「あたりまえだろ。だからこうしてバイク乗ってんじゃん」
「そっか」大地は頭をかいた。「じゃあ、それでアルバイトやめて旅に出たんですね」
「やめないって。だって免許取ったって、バイクが必要だろ?」
「そっか」
「それに旅の道具も必要だし、旅費も稼がなきゃ。旅に出たら食費とかガソリン代とか、金がいくらあったって足りないからな。だからさ、途中から皿洗いは夜だけにして、昼間は倉庫の仕分けの仕事をはじめたんだ。教習所いく日だけ休ませてもらってさ」
「二つもアルバイトするなんてたいへんですね」
「どうってことないって。身体はきついけど目的があったからさ。ホントにたいへんなのははじめのバイトの面接。つまりさ、はじめの一歩目だよ」
「一歩目?」
「そう。一歩目。何をするにもさ、一歩目ってのはすげえパワーがいるんだよ。だってさ、半年も一人きりで部屋に引きこもってたんだぜ。バイトするとなりゃ、当然人とも接するわけだしさ、しかもまったく知らない人と。やっぱりびびるだろ。だっておれ、バイトしようって決めてから実際にバイトの面接受けるまで、一カ月かかったからね」
「何してたんですか? 一カ月」
「何って、何もしてねえって。バイトさがさなきゃって思いながら、何もしないでずるずると一カ月だよ」
 建物のはざまから陽光が射した。いつのまにか朝霧が晴れていて、空が青く光っていた。通りを走る車の数も増えている。
「でさ、ある日これじゃいけないってマジで思って、思いきってバイトの面接にいったんだ。すげえ勇気出したな。人生の中で一番パワー使ったんじゃねえ? だけどそのおかげで今こうやって旅できてるんだよ」太一はまた愛車のタンクに手をやった。「だからさ、大地。おまえも旅に出ろ。じゃなきゃ絶対に後悔するって」
「だけど……」大地はうつむいた。
「びびってんのか?」
 大地は無言のまま、ちらっと太一を見上げた。
「わかるよ。びびるよな、そりゃ」
「はい。だってヒッチハイクなんて、ホントはしちゃいけないんでしょ?」
「ちがうな」
「えっ」
「大地。おまえはヒッチハイクにびびってるんじゃないんだよ。変化するのが怖いんだ」
「どういう意味ですか?」
「わかんなくってもいいよ。だけどさ、とにかくここで逃げちゃ駄目だ。絶対に後悔する。すげえびびるのわかるけど、いかなきゃ駄目だ。おまえ、このままじゃいやだろ? いじめられっ子のままでいたくねえだろ?」
「いたくない」ぼそっとだが、大地はきっぱりと答えた。「このままじゃいやだ」
「だったらいくんだ」
「だけど旅に出たからっていじめられなくなるわけじゃないじゃないですか」
「たしかにそうだな。その確証はないよ。だけどな、旅してると不思議なくらいパワーが出るぞ。マジで自分は何だってできるんだって気になってくる。いや、実際、何だってできるんじゃないかって、おれはマジで思ってるけどね。おれは高校中退だけど、その気になりゃ総理大臣にだってなれるって」
 まさか、と大地は笑おうとしたが、太一の顔が真剣なので笑わないでおいた。
「まあさ、総理大臣は冗談にしても、マジで何だってできるし、何にだってなれるって。だいたい悔しくねえ? 自分が引きこもって駄目になっちゃうなんて、いじめっ子に対してさ。おれは悔しいよ。だから絶対に、おれをシカトしたやつらよりすごい人間になってやるよ。見返すっていうかさ。大地だってそうじゃねえ? そう思わねえ?」
 よくわからない。だけど太一のいうとおり、ちょっとだけ悔しい気もする。
「だからさ、とにかくいってみろって。一歩目だよ、一歩目。問題はそこだけさ」
「一歩目」
「そうだ、一歩目だ。人生で最大の瞬間だ」オートバイ乗りはゆかいそうにいった。「決心したか?」
 大地は頷いた。正直まだびびってはいたけど、こうなったらいくしかない。考えてみれば、一度は旅立つ決意をしたのだ。それで苦労して寝袋まで手に入れた。列車でいくのがヒッチハイクにかわっただけだ。
「いく。いきます!」



つづく



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第19話「旅立ちの朝」

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第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」
第14話「天国へ。お父さんのところへ」
第15話「クマみたいな大男 ①」
第16話「クマみたいな大男 ②」
第17話「大地、寝袋をさがして釧路の街を走る」
第18話「大地、寝袋を手に入れる」

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 ずり落ちたバックパックを揺すり上げ、早朝の釧路駅に入った。
 駅構内のそば屋やキヨスクはまだ閉まっていたが、改札付近にはすでに数人の人がいて、自分が乗る列車の改札を待っていた。ひっそりと静まる夜明けの町を一時間近くかけて歩いてきた大地は、人の姿を見てほっとした。
 窓口の駅員に、屈斜路湖にいくにはどの列車に乗ったらいいかとたずねた。
「それなら釧網本線だわ。五時五十九分が始発だから、あと二十分で出発だね」駅員は平日の朝にやってきた小学生をあやしまず、むしろ歓迎しているようだった。「北海道旅行かい?」
「はい。東京からきたんです」大地はあらかじめ考えておいた嘘を口にした。今日は金曜日で、釧路の小学校は授業があるけど、内地の小学校は八月いっぱい夏休みだ。だから東京からきたといえば家出だと思われない。
「北海道ははじめてかい?」
「はい。屈斜路湖の近くにお祖母ちゃんが住んでて、それでたずねにいくんです」
 これも昨夜考えた嘘のシナリオの一つだ。ただの旅行というより親戚をたずねにいく方が大人の信用を得やすいと思ったのだ。
「屈斜路湖にいくなら摩周駅からバスかタクシーだわ。それとも誰か迎えにくんのかい?」
「バスです」これはシナリオではなく本当の話だから自然な感じに言葉が出た。
「摩周までの切符はあの券売機で買うんだ。ええと、釧路からだと……、八百円だわ」
「八百円?」大地は驚いて声を上げた。「えっ、でも、ぼく小学生だから半額ですよね?」
「そうさ。釧路から摩周まで千六百円だから、その半分でいいんだわ」
 強烈な音を立てながらでっかいシャッターが目の前に下りてきたような、そんな絶望感が大地をおそった。まさか汽車賃がそんなにするとは思っていなかった。何となく、三百円くらいだと考えていたのだ。
「あのバスは……? バスはいくらですか?」
「管轄がちがうからわかんないけど、同じくらいするんでない?」
「同じくらいって、八百円?」
「するんでないかな」
 八百円と八百円で千六百円。大地のポケットには七百四十円しかない。
 ショックで立っているのがつらくなってきた。せっかく寝袋を手に入れたのに、今度はお金が足りないなんて……。
 ふと刺さるような視線を感じて、大地ははっとして駅員を見上げた。さっきまでのやさしい笑顔は消え、けわしい表情で自分を見下ろしている。
「もしかして、足りないのかい? お金」
 大地が答えられずにいると、駅員の疑惑の目はさらに強まった。当然だ。小学生が一人で親戚の家をたずねるのだから、普通なら多めのお金を親からわたされるはずだ。千六百円の運賃を聞いて動揺するのは、大人から見ればへんだと思うにちがいない。大地はとりあえず、嘘でもいいからお金をじゅうぶんに持っているふりをしようと思った。だがショックが大きすぎて、表情がうまくつくれない。
「お母さんから、お金もらってきたんでないのかい?」
「え、あ……、はい。あの……。もらってきました」
「ホントにかい?」
「は、はい。あの……、ホントです」
「何かあやしいでねえの。だいたい、なしてこんな早くに北海道についたの? こんなに早くにつく飛行機なんてないっしょ。どうやってここまできたの?」
 シナリオにないことを駅員は訊いてきた。その目は完全に大地を疑っている。
「ちょっと中に入って。話を聴こう……、あっ」
 大地は走り出し、駅の外に出た。


 追っ手がこないとわかるまで走りつづけ、息を切らしながら歩道にしゃがみこんだ。駐車場のフェンスにもたれ、目の前の通りを見るともなしに見つめた。朝霧の中を、何台もの大型トラックが爆音を上げて走りすぎていく。
 帰るしかないのかな……。
 大地は力なくため息をついた。悔しいけど、お金が足りないのだからどうしようもない。何しろ自分の持っているお金では、屈斜路湖はおろか摩周駅にすらいけないのだ。
 大地は膝小僧におでこをのせ、すすり泣いた。哀しいよりも、悔しくてしょうがなかった。どうしてぼくは何をやってもうまくいかないんだろう。あんなにがんばったのに。あんなにがんばって、寝袋だって手に入れたのに……。
 不意に何かのエンジン音が迫り、大地のすぐ近くでとどまった。大地は涙をふき、顔を上げた。オレンジ色のタンクのオートバイが歩道に乗り上げ、大地を見下ろしている。荷台には、旅の道具らしき荷物がでっぷりと積んである。
「何だよ、まだ開いてねえじゃんよ」ねずみ色のジャンパーを着た男の人がヘルメットを脱ぎ、道路の向こう側の建物を見やった。看板に「和商市場」の文字がある。観光客に人気の市場だ。「市場っつったら、普通、朝一でやってんよなあ。そう思わねえ?」
 男が大地を見下ろした。キツネみたいな目をした若い男だ。唐突に話を振られ、大地は返答にこまった。とっさに泣き顔を隠すようにうつむき、男にばれないよう目をごしごしとふいた。
「ん? どうした? 何かあったの?」
「いえ」大地は目をぱちぱちさせながら立ち上がった。「何でもないです」
「何だ、そうか。それならいいけどさ」
 大地はもう一度だけ鼻をすすり、無理に笑ってみせた。
「おっ」オートバイ乗りは大地の背中を見て、うれしそうな顔をした。「何だよ何だよ、すげえバックパック背負ってんじゃん。一人旅か?」
「いえ、べつに……」
「何年生?」
「五年です」
「マジかよ、やるなあ」オートバイ乗りはエンジンを切り、ごわごわの髪をかきながら愛車から降りた。「勇気あるよな。一人で旅して怖くねえ? おれなんて高三だけど、はじめはけっこうびびったぜ。さすがに今は慣れたけど」
 大地は返事にこまり、あいまいに苦笑した。
「寝泊りはどうしてんの? ユースか何か? ちなみにおれはキャンプだけど、たまに疲れたら屋根があるとこに泊まるって感じ。ライダーハウスとかさ。昨日も釧路のライダーハウスに泊まったんだ。一泊千円でさ。ぼろいけど、いい感じだったな。泊まってた人もおもしろい人ばっかだったし。きみはどこに泊まった?」
「ぼくは今日の朝、家を出発したばかりなんです」東京からきたというシナリオを捨てて、大地は正直に告げた。
「今日の朝?」オートバイ乗りは眉をひそめた。「ってことは、もしかして地元?」
 大地はこくりと頷いた。何となくこの人には正直な話をした方がいいと直感的に思った。それにどうせもう屈斜路湖にはいけないのだから、嘘をつく必要はない。
「そうか。だけどこれから旅をはじめるんだろ? だったら立派な旅人さ」オートバイ乗りは大きな笑顔でいった。「それで、これからどこいくのよ?」
「ええっと……、屈斜路湖に……」一瞬どう答えるか迷ったが、大地はとりあえずそう答えた。「そこに男の人が待ってて、その人と一緒に釧路川をカヌーで旅するんです」
「マジで?」オートバイ乗りは興奮した。「カヌーで旅すんの?」
「はい」
「かあっ、いいなあ。カヌーかよ。しぶいなあ。旅の間、何度か見かけたけどさ、カヌーは超しぶいよ。あれこそ旅、って感じだもんな」
「カヌーが、ですか?」不意に身体がぞくぞくし、ぶるっと大きく震えた。「カヌーこそ旅ですか?」
「うん。だって、あの小さいカヌーに荷物積んでさ、上流から下流の町まで下っていくんだろ? 何日もかけてさ。マジで男のロマンじゃねえ?」
「男のロマンですか!」
「ああ。きっと世界もかわって見えるんじゃねえ?」
 やっぱりいきたい。何としても屈斜路湖にいって、そこからカヌーに乗って釧路川を下りたい。
「そうかあ。カヌーで旅するのかあ。それで今から屈斜路にいくんだ? 電車で? あっ、そうか。北海道は電車じゃないんだったけ。汽車? 気動車か?」
「いけなくなったんです」現実を思い出し、大地は力なくうつむいた。
「どうして?」
「お金が足りなくて」
「足りない、って、親からお金もらってきたんじゃないの?」
 大地は首を横に振った。ちょっとだけ迷い、やがて口を開いた。「ぼく、家出してきたです」
 大地は順を追って説明した。父が死んだことや、母が冷たくなったこと。自殺しようとしたことは内緒にしたが、クマみたいな大男と出逢い、その人と釧路川を旅することになったことは話した。釧路川の旅は死んだ父といく予定であったことも話した。
 オートバイ乗りは神妙な顔つきで話を聴き、大地が話し終えても、しばらくその表情のままでいた。
 きっと家出は駄目だといおうとしているにちがいない。急に黙りこくったオートバイ乗りを見て、大地はそう思った。誰だって子どもが家出をすれば、帰れというに決まっている。この釧路川の旅に誘ってくれた大男でさえ、はじめは家に帰れと大地をたしなめたのだ。だからこのオートバイ乗りも、今すぐ帰れというだろう。
「いくしかないだろ」
「えっ?」
「屈斜路湖。絶対にいった方がいいって。だって釧路川ってお父さんといく予定だったんだろ?」
「はい」
「そんで、そのクマみてえにでっかい男の人に、そこへいこうっていわれたんだろ?」
「はい」
「お父さんといこうとしてた場所に?」
「はい」
「いくしかねえって!」オートバイ乗りは、宝島の地図を手に入れた海賊のように、でっかい笑顔で声を上げた。「マジそれ運命だって!」



つづく



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第18話「大地、寝袋を手に入れる」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」
第14話「天国へ。お父さんのところへ」
第15話「クマみたいな大男 ①」
第16話「クマみたいな大男 ②」
第17話「大地、寝袋をさがして釧路の街を走る」

お父さんとの旅「はじめから一気に読めるページ」


 日の出町に帰ってきた。
 廃屋だらけの商店街に入ると、閉店の片づけをしている坂巻に出くわした。
「おう、大地。どこほっつきまわってたんだ?」売り物の自転車を店の中に運びながら、坂巻はきつい口ぶりでいった。「おめえ、ちゃんと学校にいってるのか?」
「いってる」嘘がばれないよう、大地は坂巻から目をそらした。
「あんまりお母さんに心配かけるなよ。お父さんが死んで、お母さん、今ホントにたいへんなんだからな」
 ぼくだってたいへんなんだよ、と大地は抗議したかった。だけどやめておいた。こういう話題のときに、大人にはむかっても勝てっこない。
「今日だってまだ帰ってないべ。毎日たいへんなんだわ。ほれ、保険のセールスってのは契約取って何ぼだからな。精神的にきついんだわ。しかも今は外資系の安い保険がそこら中にあっから、なかなか契約取れねえしな。したからおめえ、いい子にしてねえと駄目だぞ。お母さんの負担を減らしてやれ。ちょっとは家事でも手伝ってんのか?」
 適当に返事するのは簡単だったが、大地は無視を決めこんだ。自分ではなく母の味方をする坂巻に反感をおぼえた。
「おめえ、毎日暇なら、おれの仕事手伝うか?」坂巻はだしぬけにいった。「パンク修理とか、店の片づけとか、まあ、はじめはおぼえることばっかでたいへんかもしれねえけど、お父さんの店の手伝いしてたんだから、すぐにできるようになるべ」
 大地は答えず、表情だけでことわった。
 坂巻は大地をちらっと見て、話をつづけた。「アルバイトがいやならホッケーでもやらんか? 学校の同好会が今さらっていうんなら、クラブチームだってあるんだし」
 大地は首を横に振った。
「まあ、そういわずによ。ちっとはおめえ、自分を磨くっつうことも考えれ。このままだとおめえ、つまらねえ人間になっちまうぞ。お父さん死んでつらいのはわかるけど、それで駄目になっちまうなんて……」
「うるさいっ」大地は爆発した。「ぼくはつまらなくなんかない。駄目になんかなるもんか!」
 大地はペダルを蹴り、ホワイトホースを走らせた。サドルから腰を浮かせ、闇雲に走った。おい大地、と坂巻がくり返し呼ぶ声が背中に聞こえ、しだいに小さくなっていく。
 商店街を走り抜けると、日の出町アイススケート場が見えた。駐車場に何台もの車がとまっている。今夜もどこかの学校が練習しているのだろう。
 大地は自転車をとめて、アイススケート場を見つめた。
 またスケート場がしまるのを待って、今度こそ本当に自殺しようか……。
 そんな考えが一瞬頭に浮かんだが、大地はすぐに首を横に振って打ち消した。今すべきなのは自殺じゃない。寝袋をさがすのだ。何が何でも寝袋を手に入れて、大男が待つ屈斜路湖にいくのだ。
 あきらめてたまるか!
 大地は自転車のペダルを強くふみ、レースみたいなスピードで走り出した。アイススケート場が背後に遠ざかり、道の左右に空き地が現れた。雑草を揺らして吹きわたる風が、大地の身体を軽くかすめた。
 空き地の一角に、見慣れない建物がぽつりと立っていた。丸太造りの、どこか山小屋を思わせる建物だ。
 こんなところに小屋なんてあったっけ……?。
 大地は首を傾げながら、その建物の前で自転車をとめた。看板も何もなかったが、ドアのノブに「営業中」の札がかかっている。何かの店のようだ。
 大地はホワイトホースを降り、店に近づいた。子どもが立ち入るような店じゃなかったらどうしようと思いつつも、興味を引かれてドアを開けた。
 カウベルが鳴り、同時に店内の風景が目に飛びこんできた。学校の教室ほどの広さの薄暗い店の中に、古い商品がところせましと押しこめられている。CDコンポ。ギター。ドラム。机。カメラ。自転車。グローブ。スキー板。アイスホッケーのスティック……。
 あっ、と大地は声をもらした。リサイクルショップだ!
「坊や。何かおさがしかい?」灰色の髪と髭を長々とはやしたやせぎすの老人が、奥の机から声をかけてきた。無表情だが、その顔にはどんな笑顔にも勝る温かさがあった。
「寝袋ありますか?」
 期待をこめて訊くと、逆に胸の中には不安がふくらんでいった。店には中古の品々が山ほどあるが、その中に寝袋があるとはかぎらない。
「あるとも」老人はあたりまえだとばかりに答え、よっこらしょと立ち上がった。どれどれ、と口にしながら歩き出し、商品の山の中に消えた。
 老人を待つ間、期待と不安で胸がかきむしられるようだった。寝袋はあるという。しかしその寝袋を四千円で買えるだろうか。
 緑色の袋を抱えて、老人が戻ってきた。
「これが寝袋?」ラグビーボール大の袋を、大地は不安げに受け取った。登山ショップにつるしてあった寝袋の大きさを考えると、小さすぎるように思えた。
「袋から出してみるといい」
 老人にうながされ、大地は袋の口を開けて中のものを引っ張り出した。袋と同じ緑色の寝袋が出てきて、生き物みたいにふくらんでいった。
「羽毛だから、袋に入れてるときは小さくちぢむんだ。そして外に出すとふかふかにふくらむ。便利だろう?」
 たしかに小さくなれば持ち運びに便利だ。大地は感心して寝袋を見た。
「入ってごらん」
「寝袋に? いいんですか?」
 老人は頷き、近くに置いてあった品物をどかして場所をつくった。大地はそこに寝袋を広げ、靴を脱いで中にもぐりこんだ。ひんやりとした感触が全身を包み、しばらくしてぬくぬくと温かくなった。
「この寝袋はイスカ社の『エア630』といってね、零下一五度まで耐えられるんだ」
「スリーシーズン?」
「その上だよ。ウィンターシーズン用さ」老人はあいかわらず無表情でいった。「八月といっても、もう下旬だし、北海道でキャンプするなら、これくらいの寝袋の方がぐっすり眠れるんじゃないかな。南国にいくってんなら話はべつだが」
「釧路川をカヌーで下るんです」
「だったらこの寝袋は大活躍するぞ。川のそばは寒いからね」
 さあ立ちなさい、と老人にうながされ、大地は寝袋を出た。
「寝袋をつつんでやろう。それともこのまま持って帰るかい?」
「あの……いくらですか?」
「さて、いくらにしよう?」
「えっ?」
「いくらなら出せるんだい?」
「どういう意味ですか?」
「この店は買う人が値段を決めるんだ。出せるだけの金額を出してくれればいいのさ」
「ホント?」
「ああ。ここはそういう店なんだ」老人は寝袋を拾い上げて袋につめはじめた。
「だけど、それじゃもうからないじゃないですか」
「いいんだよ」老人は微笑んだ。「この店の道具たちはね、みんな自分を迎えにくる人を待ってるんだよ。わたしはその橋わたしをするだけさ。きみはこの寝袋を迎えにきた。見たところ、こいつもきみに迎えにきてもらって喜んでるようだ。だからきみは出せるだけのお金を出せばいい」
 大地は大喜びでポケットの四千円をつかんだ。だがそこで考えた。買う人が値段を決めていいのなら、もっと安い金額を出したっていいのではないか。三千円とか、何なら千円とか……。
 大地はしかし四千円を取り出し、老人に手わたした。やっぱり、ずるはいやだ。
「釧路川はお父さんと下るのかい?」
「いえ。べつの人と。その人、屈斜路湖でぼくを待ってるんです。だからぼく、一人で屈斜路湖にいくんです。汽車に乗って」大地は誇らしげに語ったが、同時に忘れていた不安が頭をよぎった。無事にたどりつけるだろうか。大地は生まれてこの方、列車に乗った経験がないのだ。
「大丈夫さ」大地の表情を読み取ったのか、老人はやさしくいった。「楽ではないかもしれないけど、きみがいきたいと思うならきっといける」
「だけど、ぼく汽車の乗り方も知らないし、バスも。それに……」いつだって子どもは無力だから、という意味のことを大地は口にしようとしたが、うまい言葉が見つからなかった。
「大丈夫さ」老人はくり返した。「きみに目的があって、その目的が正しいものならば、きみの味方になってくれる人がちゃんと現れる」
「ホントですか?」
「ああ、本当だとも」老人は大きく頷き、寝袋を大地にわたした。

 どけどけどけえ。どけどけどけえ。大地様とホワイトホースのおとおりだあ。
 大地はこのまま屈斜路湖に向けて走っていきたい衝動に駆られながら、ホワイトホースを飛ばした。
 寝袋は買った。あとは列車に乗って屈斜路湖に向かうだけだ。七百四十円のお金は旅行に出るにはじゅうぶんとはいえないけど、屈斜路湖にたどりつきさえすれば、あとは大男と一緒だからお金の心配はいらなくなる。汽車賃だけあればいい。
 大地は自転車を走らせながら空を見た。星がいっぱい出ていた。


つづく



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 朝早くにホワイトホースに乗って街に出かけた。
 ポケットには千円札が四枚入っている。全財産の四千七百四十円から、屈斜路湖までにかかるであろう交通費を差し引いたお金だ。四千円で大男がいっていたスリーシーズン用の寝袋が買えるのかわからないけど、とにかくさがしてみないことにははじまらない。
 釧路駅に向かう道の途中に登山ショップらしき店があった。大地はホワイトホースを店先にとめ、中に入った。
 店内には登山用の服やシューズ、ザックなどが並んでいた。自転車やカヌーなども置いてあった。大地はそれらの商品には目もくれず、寝袋のコーナーをさがした。
 店の奥の壁際に、広げた状態の寝袋がいくつかつるしてあった。大地は駆けより、片っぱしからつかんで値札を見た。
「何さがしてんのかな?」
 背後から声がかかったので、大地は振り返った。黒ぶちのメガネをかけた若い店員が立っていた。大地は萎縮した。いたずらをとがめられたような居心地のわるさを感じた。
「一人できたの? 学校は?」
「ええと、まだ夏休みなんです」大地は嘘をついた。これから屈斜路湖につくまで、ずっとこの嘘をとおそうと決めていた。
 店員は観察するような目を大地の頭からつま先まで二往復させ、最後にポケットのあたりでとめた。「お金は持ってきたの?」
「はい。あの……一番安いスリーシーズンはどれですか?」
「うちで出してるやつでは、これが一番安いかな」店員は右はしの寝袋をつかみ、軽く持ち上げた。「安いっていっても、ものはいいよ。一応、気温二度まで耐えられるから」
「いくらですか?」
「二万円だね」店員は値札を読み上げた。
「そんなにするの……」
「そんなに?」店員はむっとした顔になった。「これでも二割くらい安くなってんだよ。ほかの店ならもっとするもなあ」
「いえ、そうじゃなくて、寝袋ってそんなに高いのかあって思って……」
「そりゃそうさ」店員は寝袋を大事そうになでながらいった。「はじめての人はみんな高いっていうけど、高いだけだけの価値はあるのさ。キャンプの夜でよく寝られるかどうかって、寝袋が重要なポイントだもね」
「はあ……」
「それにさ、はじめに寝袋とテントそろえちゃえば、あとは宿に泊まらないですむんだから、二万円なんてすぐに元取れちゃうよ。おれなんてもう二百泊以上キャンプしてるから、一泊の宿代が五千円としても百万円浮いたってことっしょ」
 理屈はそうかもしれないけど、寝袋を使って何百泊もするつもりのない大地にとって、二万円はやはり高すぎる。
「もっと安いのはないんですか?」
「ないなあ」店員はべつの寝袋の値段を確認しながらいった。「ちなみに予算はどれくらいなのさ?」
「四千円です」
「はあっ? 四千円じゃ無理だわ」店員はあきれ顔でいい、鼻で笑った。「出直しなよ。やっぱりさ、こういう高価なものは親と一緒にきて選んだ方がいいって」
 店員がもう話は終わりとばかりにレジに戻ったので、大地はあきらめて店を出た。
 大地はホワイトホースを飛ばし、べつの店をさがした。登山ショップなんて日頃から意識しているわけではないから、どのあたりにあるのかさっぱりわからない。闇雲に走ってさがすしかなかった。
 二十分ほど走ると、登山ショップがあった。大地は店に入るなり、店長らしき男をつかまえ、四千円で買える寝袋はあるかとたずねた。
「四千円じゃ厳しいわ」五十すぎの年格好の店長は苦笑まじりにいった。「スリーシーズン用だと安くても一万四、五千円はするんだわ」
「でもぼく四千円しかないんです」
「そういわれてもなあ」
「何とかなりませんか? ぼく、寝袋買わなくちゃいけないんです。絶対に」
「気の毒だけど、四千円じゃどうにもならんなあ」
 大地はとぼとぼと店から出て、がっくりと頭を垂れた。自分の持っているお金では寝袋が買えないとわかり、身体に力が入らなくなった。
 ホワイトホースにまたがり、あてどなく街を走りながら、信用金庫にあるお金を使えればなあ、と考えた。去年の夏休みから父が入院するまでの約十カ月間、父の店の洗い場のアルバイトでためたお金が、たぶん二十万円近くあるはずだ。そのお金は、大地が本当にたいせつだと感じる大きいものに出逢ったときに使っていいことになっている。今がそのときだ、と大地は思う。あの大男との釧路川のカヌー旅行は、その「大きいもの」であるにちがいない。
 だがその預金通帳は、母が持っている。理由を話したところで、母が通帳をわたしてくれるとは思えない。そればかりか、理由を話してしまったら家出しようとしているのがばれてしまう。
 大地は途方に暮れた。どうすれば寝袋を手に入れられるのだろう。
 そうだ!
 ものすごいアイデアがひらめいた。持っている漫画本をすべて古本屋に売ってお金をつくればいいのだ。宝物である漫画を売るのはもったいないとも思うけど、今は釧路川の旅行の方がたいせつだ。
 ホワイトホースを飛ばして家に戻った。部屋に駆けこみ、すぐさま棚の漫画をバックパックにつめこんだ。ずしりと重くなったそのバックパックを背負い、一番近い古本屋をめざした。つめきれなかった分はまた取りに戻ればいい。棚が空になるまで、何往復でもするつもりだった。
「こんにちは」到着した古本屋に、大地は元気いっぱいに駆けこんだ。「この漫画を売りたいんですけど」
 レジで本を読んでいた四角い顔の老人が、ぎろっと大地を見た。「小学生かい?」
「はい」
「一人?」
「はい」
「親の同意書はあるかい?」
「ドーイショって何ですか?」
「同意書は同意書さ。保護者の同意書がないと本は売れないんだよ」
「嘘お」大地は泣き声を上げた。「ねえ、お願いします。ぼく、お金がほしいんです」
「決まりだからね」
「駄目ですか?」
 老人は首を小さく横に振り、もう話は終わったとばかりに読んでいた本に視線を戻した。


 寝袋が手に入らないまま一日がすぎ、木曜日になった。
 大地はこの日もホワイトホースを飛ばし、登山ショップをさがした。四千円では寝袋は買えないとわかっていても、さがすしかなかった。もしかしたら、どこかの店で大安売りをしているかもしれない。
 登山ショップは本屋や洋服屋とちがって数が少ない。だから店を見つけるだけでも苦労した。見つからないまま一時間、二時間が平気ですぎていく。
 ずっと自転車を漕ぎっぱなしで、もうくたくただった。今日はもう終わりにして家に帰りたい。だけどそれは許されない。大男が屈斜路湖にいるのは三日間、つまり明日までなのだ。あさってには屈斜路湖の空き地をあとにし、カヌーを漕ぎ出してしまう。だから何としても今日中に寝袋を手に入れて、明日は屈斜路湖へと向かう汽車に乗らなければならない。大地は筋肉痛の足を必死に動かしてホワイトホースを走らせた。
 西日がやわらぎ、街に涼しげな風が流れこんだ。
 一日まわって、登山ショップはたったの三軒しか見つからなかった。そしてその三軒とも、四千円で買える寝袋は置いてなかった。
 もう駄目かもしれないと大地は思った。二日間、釧路の街のほとんどを走りまわって見つからなかったのだ。これ以上さがしまわったところで、寝袋が手に入るとは思えない。
 それでも大地はホワイトホースに乗って釧路の街を走った。もう街に登山ショップはないかもしれないけど、四千円で買える寝袋なんて世界中のどこにもないのかもしれないけど、それでも大地は走りつづけた。
 自分でもどうしてここまでがんばるのかわからない。あの大男がどんな人かもわからないし、その人といく旅行が楽しいかどうかもわからないのに、どうしてあきらめずに走りつづけるのだろうか。
 理屈じゃないのだ。何だかわからないけど、あの大男と釧路川を旅してみたいと心が騒ぐのだ。自分にはもう、この旅しか残っていない。そんなふうにも感じていた。これを逃したら、自分はホントに生きる価値がなくなってしまう。頭で思うのではなく、心がそう感じていた。
 刻々と時間がすぎていき、街の空気がりんどう色に染まった。気の早い車はライトをつけて走っている。民家の窓も、ぽつりぽつりと明かりがつきはじめた。
 大地はあせった。ぐずぐずしていると、登山ショップがみんな閉店してしまう。
 大地は汗だくでペダルを漕いで登山ショップをさがした。釧路駅から鳥取橋に向かう大通りを、きょろきょろと首を振って走った。建物のネオンがちかちかと眩しく光っている。
「あっ!」大地は声を上げた。立ち並ぶ建物の看板の中から、「登山」の文字を見つけたのだ。
 ホワイトホースを乗り捨て、大地は店のドアを開けた。店内に入ると、二日間ですっかりなじみになったキャンプ道具特有の匂いが鼻をついた。
 きょろきょろと寝袋をさがしながら奥へと進むと、棚にTシャツを並べていた店員と目が合った。
「あれ? またきたのか?」
 黒ぶちメガネの顔を見て、大地は全身の力が抜けるのを感じた。一番はじめにおとずれた店に、またきてしまったのだ。
「お金持ってきたの?」
 大地は力なく首を振った。口を利くのもおっくうなほどに絶望していた。
「じゃあ駄目だって。いったしょ。四千円じゃ寝袋は買えないんだって」
「あの……」大地はどうにか顔を上げ、口を開いた。「ほかに知りませんか? 登山ショップ」
「はあっ?」
「登山ショップじゃなくてもいいんです。寝袋が売ってる店……」
「だからそういう問題じゃないんだよ。どこの店にいったって四千円ぽっちじゃ駄目なんだって」
 いわれなくても、二日かけて登山ショップをたずねまわった大地には、じゅうぶんにわかっていた。どの店にも、四千円で買える寝袋なんてなかった。だけど、だからといって、あきらめるわけにはいかないのだ。
「最低でも一万五千円は用意しなくちゃ、スリーシーズン用の寝袋は買えないって」
「だけどぼく、どうしても今日中に寝袋買わないといけないんです。お願いします。寝袋が売ってる店、教えてください」
「教えるのはいいけど、いくだけ無駄だよ。中古ならともかく、四千円の寝袋なんて聞いたことないわ」
「えっ?」店員の言葉が耳に引っかかった。
 中古?
「だからさ、お父さんつれて休みの日にでもくればいいさ。少しくらいなら値引きしてあげるから」
「今なんて?」
「えっ?」
「中古っていいました? 中古の寝袋って。あの……中古の寝袋なんてあるんですか?」
「えっ? まあ、あるんじゃないの? リサイクルショップか何かにいけば」
「ありがとっ!」
 勢いよく店を出て、ホワイトホースに飛び乗った。霧が晴れていく。そこから射しこめる光に向かっていくように、大地は走り出した。
「中古だ!」自転車を加速させながら大地は声を上げた。そうだ、中古だ。中古の寝袋を買えばいいんだ!
 大地は立ち漕ぎで走り、川向こうをめざした。いつもいくブックオフの近くにリサイクルショップがある。大きい店だから、きっと寝袋も置いてあるだろう。
 レンガ調の歩道は会社帰りのサラリーマンや買い物帰りの主婦などでごった返していた。大地は自転車のベルを景気よく鳴らした。歩道を歩く大人たちがいっせいに大地を振り返り、立ちどまって道を開けた。
 大地は自転車をさらに加速させた。そして心の中で、いつもの声を上げた。
 どけどけどけえ。どけどけどけえ。大地様とホワイトホースのおとおりだあ。
 鳥取橋に差しかかると、大地は川を見下ろした。町の明かりを映した川面を見て、ぶるっと身体を震わせた。この川を下るのだ。クマみたいな大男と、この釧路川をカヌーで下るのだ!
 日本製紙の工場のエントツが群青色の空につき出ている。うっすらと見える煙は左側へと向かっていた。内陸からの風、北風だ。その風が大地の頬を打った。冷たい風だ。秋の匂いがする風だった。
 だけどぼくの夏休みはまだ終わっていないんだ……。
「夏休みだ!」大地は人目も気にせずに大声を上げた。「夏休みだ。夏休みの旅行だ!」
 もしかしたら、と大地は思う。この旅行は天国の父からのプレゼントかもしれない。天国の父がどうにかして息子に釧路川を旅させようとして、いろいろと細工してくれたのだ。そう考えると、不思議な偶然が重なった説明がつく。
 リサイクルショップが近づいてきた。大地はラストスパートとばかりにホワイトホースを飛ばした。
 ブレーキをかけて減速し、店の駐車場に入った。自転車を飛び降りるやいなや、店に飛びこもうと駆け出した……。
 だがすぐに行く手をさえぎられ、大地は愕然と立ちつくした。いつもは開けっぴろげの店にシャッターが下りているのだ。
「嘘でしょ……」
 くちびるをわななかせながら自転車を降り、シャッターの貼り紙に近づいた。「本日、都合により休みます」とマジックで書いてある。
「ちくしょうっ。ふざけんなっ。馬鹿にしやがってっ!」
 シャッターを蹴飛ばそうとして、かろうじてふみとどまった。かわりにべそをかき、ホワイトホースに乗って家路についた。



つづく



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第14話「天国へ。お父さんのところへ」
第15話「クマみたいな大男 ①」

はじめから通しで読みたい方用
第1話~第16話



 大地はぼんやりとつっ立ったまま、焦点の合わない目を大男に向けていた。たった今、この男がいった言葉が宙をさまよっている。その言葉をうまく受けとめられない。
「どうだ、ガキ。一緒に旅するか?」
 旅? どこへ? 釧路川? 釧路川を旅するっていった?
「今、何て……?」震える声が、ようやく出た。
「だから一緒に旅するかって」
「ちがいます。その前。いく場所」
「ああ、釧路川だ。釧路川をカヌーで下るんだ」
 身体がくらっときた。気をうしないそうな感じがした。
「どうだ? ガキ」
 偶然なのだろうか。この大男が目の前に現れたのは、ただの偶然なのだろうか。「クマみたいな大男」にそっくりなのも、父といくはずだった釧路川にいこうとしているのも、みんなただの偶然なのだろうか。
「どうなんだ? ガキ。いくのか? それともやっぱりおれみたいな赤の他人と旅するのは不安か?」
 たしかに赤の他人だ。名前だって知らないし、年齢も、本当の職業も知らない。どこからきたのかも知らないし、どんな人なのかも知らない。そんな人と一緒に旅行にいくなんて普通じゃない。何より危険だ。だけどこの人は、自分が描いた漫画のキャラクターにそっくりなのだ。「クマみたいな大男」そのものなのだ。アイスホッケーはしたことがないというけど、だけど「クマみたいな大男」と同じくザンボーニに乗っている。そして、父といくはずだった釧路川をカヌーで下ろうとしている。赤の他人だけど、全部ただの偶然なのかもしれないけど、だけどきっと運命の人だ。
「いく!」敵軍の兵士からチョコレートをもらう腹ペコの少年みたいに、大地は腹の底から声を上げた。「ぼくいきます! 学校も休みます! っていうか、もともともういく気なんてなかったし。だからつれてってください!」
「わかった。わかったからそう興奮するな」
「それで待ち合わせの場所は? それと時間。っていうか、やっぱりぼくここに泊まった方がよくありません? その方がおじさんだってめんどくさくないだろうし」
「おい、ちょっと待てよ」大男はいった。「おれは一緒に旅しようとはいったが、おまえをつれていくとはいってないぞ」
「えっ? どういう意味?」
「おれは先にいく。明日の朝一番でな。おまえは後から一人でこい」
「どうして?」
「だっておまえ家出するんだろ? おれと一緒にいくんじゃ、家出にならねえじゃねえか。おれがおまえを誘拐したことになっちまう」
「だけどさっき、一緒に旅するか、って」
「そりゃ屈斜路湖から先の話だ。まずはおまえは家出してこい。いったよな? 本気で家出するって」
「だけど一人でいくなんて無理です」
「ああっ? どうしてだ?」
「だってぼく、屈斜路湖までのいき方もわからないし、それにお金もないし」
「そんなもんは自分で何とかしろ」
「ええっ? 無理ですよ」
「だったらしょうがねえ。この話はなしだ」大男はぷいっと向こうを向き、ザンボーニのエンジンをかけた。
「えっ? ちょっと待って……」
「何だ?」
「つれてってくださいよ」
「駄目だ。甘えてるんじゃねえ」
「だって、ぼくまだ小学生だから、一人で遠くになんていけませんよ。ぼく汽車に乗ったこともないんですから。お金もないし。それに警察にも補導されますよ。学校サボってるんですから」
「たしかに警察に見つかったらアウトだろうな」大男はあっさり同意した。「だがよ、それくらいかいくぐってくるのが男じゃないのか?」
「そんな……。無理ですよ」
「そうかよ」大男はまた向こうを向き、ハンドルに手をかけた。「その程度の思いなら家出なんて口にするな。とっとと家に帰れっ!」大男はどなると、ザンボーニを発車させた。
 何ていじわるな人なんだ、と遠ざかる大男の後ろ姿を見ながら、大地は思った。どうせ屈斜路湖から一緒にカヌーに乗るのなら、ここから一緒にいったっていいではないか。それを一人でこいなんて、そんないじわるして何がおもしろいのだろう。
 せっかく旅行にいけると思ったのに……。
 哀しくなってきた。自分はどうしてこんなに不幸なのだろうと、つくづく思う。同じ年頃の子はみんな両親がちゃんといて、あたりまえのように家族で旅行に出かけている。何回も、何十回も。大地は生まれてはじめての、たった一度の旅行さえ、父が死んでしまったためにいけなくなった。そして今、敗者復活のようにわき上がった釧路川の旅行のチャンスさえ、あぶくのように簡単に消えた。よっぽど自分は神様に嫌われているのだろう。大地は本気でそう思った。
 帰ろう。いつまでもここでぐずぐずしていたら、またどなられる。家には帰りたくないけど、結局自分にはそこしかいく場所はないのだ。
 大地は歩き出した。
 背後で車体が揺れる音が激しく鳴り、リンクいっぱいに響いた。大地は振り返った。ザンボーニがリンクからフェンスの外へと出て、車庫に入ろうとしていた。
 不意にわけのわからない悔しさがこみ上げ、大地は走り出した。フェンスの外側を全力で走り、車庫に入っていくザンボーニを追いかけた。
「おじさんっ」大地はザンボーニを追って車庫に入り、息切れした声を上げた。「ぼくいく。一人でいく」
 大男はザンボーニのエンジンを切り、静かに振り返った。
「ぼく、一人でいきます。どこにいけば、おじさんに逢えますか?」
「空き地にこい」大男はいった。「屈斜路湖の南にチョウコバシって小さな橋がある。釧路川はそこから流れ出してる。そのわきに空き地があるから、そこにくればおれはいる」
「チョウコバシ……」
「ああ。眺湖橋。眺める湖の橋だ」
「眺める湖の橋……」
「そうだ。眺湖橋。おぼえたか?」
「眺湖橋」大地は口にし、頭の中にその名をきざんだ。そして腹の底からいった。「いきます!」
 さまざまな障害が頭に浮かんだが、大地はとにかくいこうと決めた。眺湖橋のわきの空き地にはどういけばいいのかとか、交通費はいくらかかってそのお金をどう工面するかとか、警察に見つからずにいくにはどうしたらいいかとか、そういう問題は後で解決しようと思った。まずいくか、いかないかを決める。そして大地はいくと決めた。そんな物事の決め方をしたのははじめてだった。
「明日いきます。何時までにいけばいいですか?」
「待て。そうあわてるな」
 大男はザンボーニを降りた。床に足をつけると、あらためてその大きさが際立った。背が高いだけでなく、横幅もある。近距離で向かい合うと、その迫力に圧倒される。
「いいか、ガキ。まずは準備だ。これはおまえにとって家出だけど、同時に旅でもあるから、いろいろと道具がいる。まずはその道具をそろえるんだ。屈斜路湖にくるのはそれからだ」
「道具って、何?」
「そうだな。テントはおれと一緒に寝ればいいし、カヌーも二人乗りだから、おまえは寝袋だけ自分で用意しろ」
「持ってません」
「じゃあ買え」
 ええっ、と大地はまた抗議しそうになったが、どうにかこらえた。「どこで買えばいいんですか?」
「登山の専門店とか、アウトドアショップとか、そういう店にいきゃ売ってる。そうだな、今の季節でも北海道の夜はかなり冷えるだろうから、スリーシーズン用は必要だな」
「スリーシーズン……?」
「春から秋まで三つの季節に使える寝袋だ。店員にスリーシーズンの寝袋くれ、っていえばさがしてくれる」
「いくらくらいするの?」
「さあな。最近のやつはちょっとわかんねえな」
 大地は不安になった。机の引き出しのこづかいの残りは五千円もない。
「もしも寝袋を買えなかったら? そのときは手ぶらでいってもいいですか?」
「駄目だ」大男は冷たくいった。「寝袋なしでどうやって旅するんだ? 下手すりゃ凍え死ぬぞ」
「だけどぼく、あんまりお金ないから……」
「どうにかしろ」大男はまたもやつき放すようにいった。「目的に向かって命がけでやりゃ、何だって手に入るもんさ。本気で何かをほしいと思って、必ずそれが手に入ると信じればな、奇跡みたいなことが、目の前にやってくるんだ。そんな経験、おめえにもあるだろ?」
「ありません」
「そうかい。そりゃおめえがまだ本気で何かをしたことがねえからだ」大男はいい、首をこきこきと動かした。「いいか、ガキ。寝袋を手に入れたらすぐに屈斜路湖にこい。おれは三日間だけ待つ。今日が火曜だから、金曜日までだ。それまでにこなかったらおれは先にいく」
 つまり土曜日の朝には大男は屈斜路湖からいなくなるということだ。
「わかったら今日はもう帰れ」
 大男は大地を追いはらうように手を振った。






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道下森オフィシャルブログ「魂の落書き」

第15話「クマみたいな大男 ①」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」
第14話「天国へ。お父さんのところへ」



こんな馬鹿なことって……。
 大地は柱の陰に隠れながら、ザンボーニの運転士を見つづけた。似ている。いや、「クマみたいな大男」そのものだ。あの身体つき、顔立ち、皮膚の色、ぼさぼさの髪、ぼうぼうの髭。何から何まで自分が生み出したキャラクターのとおりだった。おまけに着ている服も、上下黒のジャージ。これも「クマみたいな大男」がいつも着ている服と同じだ。
 もちろん「クマみたいな大男」は漫画の中の絵で、生身の人間ではない。だが大地の頭の中には、はっきりとしたイメージを持った「クマみたいな大男」がすみついている。その風貌に一ミリの狂いもない人間が、目の前に現れたのだ。
 こんな不思議なことがあるのか……。
 大地は震えた。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。夢でも見ているのだろうか。それとも頭がおかしくなってしまったのだろうか。それとも、もしかしたらここは天国の入り口なのか。いつの間にか自分は死んでしまったのか……。
「おい、そこに誰かいるのか?」荒々しい声がリンクに響いた。「いるんなら出てこいっ」
 大地は頭を引っこめた。そしてたった今聞こえた言葉を思い返した。言葉の内容ではない。声だ。驚いた。声までもが、自分がイメージしていた「クマみたいな大男」のものとそっくりだった!
「おい、出てこいっ」
 またがなり声が聞こえた。大地はしばらく息をひそめたが、どうせ逃げられないと判断して出ていった。自分が生み出したキャラクターと話がしてみたいという思いも、ちょっとだけあった。
 フェンスにたどりつくと、大地はぺこりと頭を下げ、おそるおそる男の顔を見上げた。そしてぎくっとした。まちがいない。やっぱりこの人「クマみたいな大男」だ!
「何だ、ガキじゃねえか」大男はザンボーニのエンジンを切り、運転席から大地を見下ろした。身体が並はずれて大きいから、ザンボーニが小さく見える。「まだ小学生だろ。こんな時間に何やってんだ?」
 大地は答えず、目だけを大男の頭から足の先へと往復させた。すごい。気持ちわるいほどイメージのとおりだ。しかもザンボーニに乗っている。『アイスホッケーマン』の中でも、「クマみたいな大男」の仕事はザンボーニの運転だ。
「何だ、宇宙人でも見るみたいな目で見やがって」
 ただの宇宙人ならこんなに驚きませんよ、と大地は心の中でつぶやいた。あなたはぼくが生み出したキャラクターなんですよ、と口にしたら、どう思うだろう。
「よお、そんな目で見るなって。べつにな、おれはこの車を乗りまわして遊んでるんじゃないんだ。仕事だよ、仕事。この車で氷をならしてるんだ」
「何してるんですか……」やっと声が出た。「ここでいったい……」
「だから仕事だっていってんだろっ」大男はいら立った声で答えた。その乱暴な口ぶりも、自分が生み出したキャラクターの特徴だ。「なめてんのか、ガキ」
「あの……、さっきの人は? いつ交代したんですか……?」
「ああっ? 何だ、交代って?」
「ザンボの運転。さっきはいつもの人が運転してましたよね」
「何だ? ザンボってのは?」
「その製氷車のことですよ」自分で運転しておいて名前も知らないのかよと思い、つい馬鹿にした口調になった。「アメリカのフランク・J・ザンボーニって人がその製氷車を発明したんです。それでザンボーニ、またはザンボって呼ぶんですよ」
「けっ、いけ好かねえガキだ」
「それで、さっきの人は?」
「だから何だ? さっきの人ってのは?」
「さっきまでザンボを運転してた人ですよ。いつもの小柄なおじさん」
「知らねえよ。こいつはずっとおれが運転してたぞ」
「嘘だ。ぼくさっき見ましたよ。いつもの人が運転してたの」
「見まちがえだろ。今日はずっとおれが運転してたぜ」
 はっきりといいきられ、大地は自信がなくなってきた。本当に見まちがえたのかもしれないと思えてくる。
「もっともおれは今日だけの臨時雇いだけどな」大男は運転席に座った姿勢のまま、首をこきこきとやった。「一日契約ってやつだ。日当は安いけど、かわりに今夜はここの事務室に泊まってもいいからって」
 へんな話だ、と大地はいぶかった。大人の仕事の世界はわからないけど、ザンボーニの運転士を一日だけの契約で雇うなんて、そんな話があるとは思えない。
「泊まるついでに、夜中に不審者がこないかチェックしてくれっていわれたけどな。何でもときどき夜中とか早朝とかにしのびこんでスケートしていく連中がいるらしいんだよ。あっ、まさかおまえスケートしにきたんじゃないだろうな」
 大地は首を横に振った。
「まあいいさ。とにかくよ、そんなわけで大助かりだぜ。何しろこっちは宿なしだからよ」
「宿なしって、釧路に住んでるんじゃないんですか?」
「まあな。放浪の身だ」
「どこからきたんですか?」
「遠いところだ」
「遠いところって……、もしかして外国?」
「まあそんなとこだ。とにかく遠いところだ」
「シカゴ……?」大地はおそるおそる訊いた。
「ああっ? 何でシカゴなんだ?」
 シカゴはアイスホッケーのNHLのブラックホークスの本拠地だ。『アイスホッケーマン』の「クマみたいな大男」は、ブラックホークスを退団して釧路に流れつく。
「ちがうんですか?」
「ちがう」
 はっきりと否定され、大地は息をついた。ほっとしたのか、がっかりしたのか、自分でもわからない。
「じゃあ、あの……、アイスホッケーの経験は?」
「ねえさ。アイスホッケーなんて一度だってやったことはねえ」
 大地はまた息をついた。どうやら似ているのは外見だけのようだ。やっぱり別人なのだ、とちょっぴり拍子抜けした。たまたま似ている人が目の前に現れただけなのだ。だけど考えてみればあたりまえじゃないか。別人じゃなかったら、そいつは漫画の中から飛び出してきた化け物ということになる。
「それより、おめえこそ何やってんだ? こんな時間に、こんなところでよ」
 自殺しににきたのだ、と大地は思い出した。だが今やその気はうせていた。どっち道今夜はこの大男がここに泊まるらしいから、このスケート場では自殺はできない。
「早く帰れ。母ちゃんが心配してるぞ」
「まだ帰ってないから」
「帰ってないって、こんな時間まで仕事してるのか?」
「はい」大地は頷いたが、さすがにもう帰ってきているだろうと思った。今頃カンカンにおこっているかもしれない。
「父ちゃんは?」
「お父さんはいません」
「そうか。帰っても一人ぼっちってわけか。だがもう子どもが外をうろつく時間じゃねえ。だから帰れ。わかったな?」大男はザンボーニのエンジンをかけ、ハンドルに手をやった。
「おじさん」ザンボーニを走らせかけた大男を、大地は呼びとめた。
「何だ?」
「ぼくも今日ここに泊まっていい?」
「ああっ?」大男はザンボーニをとめ、大地を見た。「何だ、おめえ家出してきたのか?」
 大地は頷いた。本当は自殺しにきたのだが、予定変更だ。
「駄目だ」大男はきっぱりといった。「何があったか知らんが、親に心配かけちゃ駄目だ」
「心配なんてしませんよ。ぼくのお母さんは。ぼくのことなんかちっとも見てないんだ」
 さっきの電話でのやり取りを思い出し、大地はむかむかしてきた。こうなったら本当に心配かけてやろうと、家出に対して闘志がわいた。
「ねえ、いいでしょ。おじさん」
「駄目だ。帰れ」
「いやだ。帰らない」
「母ちゃんが心配するだろ」
「だから心配なんてしないんだって、ぼくのお母さんは。だからぼく帰らないよ」
「いいかげんにしねえか。子どもを心配しねえ親なんていねえんだ」
「だったら心配すればいいんだっ!」大地は声を張り上げた。自分の声がリンクいっぱいに響いたので自分でも驚いたが、それでもつづけた。「心配させてやる。ぼくが今どんな気持ちでいるかわからせてやるんだっ!」
 そうだ、お母さんを心配させてやるんだ、と大地は強く思った。とりあえず自殺はやめだ。かわりに家出して、母がどう出るかをたしかめるのだ。母が以前の母に戻るのであれば、つらくても生きていけるかもしれない。だが家出してみて、それでもまだ母の態度がかわらないなら、そのときは本当に死んでやる。
「そこまでいうなら家出すりゃいいさ」大男はいった。「だがな、こんなところに一晩泊まるだけじゃ家出なんていえねえぞ。下手すりゃ家出したと母ちゃんに気づかれねえで終わっちまうかもしれねえ」
 たしかにそうかもしれない。最近では、母は仕事で遅くなったとき、大地の部屋をノックすることなく自分の寝室に直行する。今日もそうするとしたら、家出に気づいてもらえない。
「本当に家出する気なのか?」
「うん」
「決心はかたいんだな?」
「かたいよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃないよっ」大地は大声でいい返した。小馬鹿にされているみたいで、何だかムカついた。
「じゃあ訊くがよ、おめえ今夜はここに泊まるとして明日はどうするんだ?」
「明日も泊まりますよ」
「おれはいねえぞ」
 うっ、と大地は言葉につまった。
「それに昼間はここにはいられねえぞ。スケート場の営業時間だからな。どうする? どこかで時間つぶすか? それだって夜になりゃ寝る場所さがさなくちゃならねえがな。さあどうする? おめえにできるか?」
 大地は答えられず、力なくうつむいた。
「わかったろ? おめえの決心なんざ、そんなもんなのさ。さあ帰んな」
「だけど、だけどぼく、決心はかたいんです。本当に家出したい」はっきりと言葉にすると、本当に家出がしたくなってきた。大地はつづけた。「あのね、お父さんが死んじゃったんです。夏休みのはじめに。それでぼくは哀しくて、お母さんにやさしくしてほしいのに、お母さん、毎日仕事が忙しくてかまってくれなくて……」
「しょうがねえだろ。おめえの母ちゃんは生活費を稼がなくちゃならねえんだから」
「だけど、ぼくにめそめそするなって、いつも怒るんです。そりゃあ、五年生にもなってめそめそ泣くなんて格好わるいけど、だけどお父さんが死んじゃって哀しいんだから、しょうがないよ。ねえ、そうでしょ? こんなときでも泣いたら駄目なんですか?」
 大地は大男を見上げ、答えを待った。だが大男は無言で大地を見つめ返すだけだった。
「お母さんはね、お父さんが死んでからかわっちゃったんです。昔のお母さんなら、ぼくが泣いてたら、どうしたの? って訊いてきたのに。いや、泣いてなくたってぼくが哀しそうにしてたら気づいてくれた。それが今はいつもぴりぴりしてて、ぼくのことなんかちっともわかろうとしない。それだけじゃない。お母さん、お父さんが死んだのに一度も泣かないんです。いくら大人だからって、普通は泣くでしょ? ぼく、ちょっとお母さんにはがっかりしてるんだ。だから家出して、お母さんに抗議……」
「ガキ」大男が大地の話をさえぎった。「おまえ、五年生っていったな」
「えっ? あっ、はい」
「今は夏休みだろ?」
「ちがいます。おととい終わったから、今は二学期です」
「そうか、北海道の夏休みは八月の半ばで終わっちまうんだったな」
 そういえば内地の夏休みは八月いっぱいまでつづくと聞いたことがある。そのかわり冬休みが短いらしい。
「ガキ」
 大男に呼ばれ、大地ははっとした。そういえばこの人、さっきから「ガキ」と呼んでいる。これも偶然だろうか。『アイスホッケーマン』の「クマみたいな大男」も、主人公の「ダイチ」をガキと呼ぶ。
「おまえホントに家出する気あるんだな?」
「あります」
「だったら学校休めるな?」
「えっ?」
「どうなんだ?」
「休めます。っていうか、今日だって休んだし」
「じゃあ、休め。五日くらい。それでおれと一緒に旅するか?」
「どこへ?」
「釧路川だ。釧路川をカヌーで下るんだ」



つづく




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第14話「天国へ。お父さんのところへ」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」
第13話「大地、どん底に突き落とされる」


 家の中に入ると、大地はよろよろと母の部屋にいき、父の位牌の前でへたりこんだ。
「お父さん」呼びかけると、哀しみのかたまりが喉をつき上げ、おえつがもれた。「お父さん、ぼくもう駄目だ。ぼくは駄目人間なんだ。何もできない。友達もいない。みんなが普通にやってることもやってない。つまらない人間なんだ」
 遺影の父の顔がやさしく微笑んでいる。その顔が涙でかすむ。
「つまらないんだ、ぼくは。だから漫画も描けない。漫画を描くには人間としての経験がたいせつなんだって。ぼくにはそれがないんだ。だってぼく友達いないから。どこかに遊びにいくとか、そういうのないから。だからつまらない漫画しか描けないんだ。ぼくはつまらないんだ。つまらない人間なんだ」
 大地は大声を上げて泣いた。もう何もかもいやになった。つまらない。つまらないのだ。何もかもがつまらない。今までの人生もつまらなかったし、これからの人生だってきっとつまらない。
「お父さん」大地は涙声のまま、ふたたび遺影の父に語りかけた。「お父さんもホントはそう思ってたんでしょ? ぼくがつまらない子だって。だってアイスホッケーもやらないし、友達とも遊ばないし。ぼくみたいな子どもでホントはいやだったんでしょ? もっと活発な子が好きなんでしょ?」
 あの日、父が入院していた病室で、大地は自分がクラスの人気者だと嘘をついた。アイスホッケーこそやらないけど、昼休みにはみんなでフットベースをして遊ぶんだ、と。そんな自分のつくり話を、父は喜んで聴いてくれた。あのときの会話を思い出すと、大地の胸はちくちくと痛む。
 あの日、父は最後にこういってくれた。大地の長所はがんばり屋なところだ、と。がんばり屋は、一番武器になるのだ、と。だからがんばれ、そういってくれたのだ。その言葉を、大地はお守りのようにたいせつにしている。だけどそのお守りも、今はもう何の力も持たない。
「お父さん」大地は鼻をすすり、遺影の父を真っすぐに見た。「ぼく、お父さんのいうとおりがんばったんだよ。ホントだよ。だけど駄目だよ。どんなにがんばったって、何もいいことなんてないんだ。ぼく、もうこれ以上がんばれない。だからさ、お父さんのところにいってもいい?」
 一度目に自殺しようとしたときに聞こえた「駄目だ」という声は聞こえてこなかった。いってもいいのだ、と大地は受けとめた。
 大地は立ち上がり、台所に向かった。戸棚から包丁を取り、刃先を見た。身体がぶるっと震えた。ツバをのみ、柄を握る手にむりやり力をこめて、ゆっくりと刃先を喉に向けた。怖い。怖くてたまらない。誰かにとめてほしい。だけどここには誰もいないし、それに怖いけど、早く死んでお父さんのところにいきたい。
 大地は目を閉じた。包丁の柄を握る手をゆっくり動かした。
 不意に母の顔が脳裏にちらつき、大地ははっとして目を開けた。包丁を下ろすと、全身が震えた。お母さん、と大地は声を震わせた。お母さん、ごめんね。ぼくこれから死ぬけど、許してね……。
 大地はふたたび包丁の刃を喉に向け、静かに目を閉じた。
 まぶたの裏に、母の顔がちらつく。最近はいつもぴりぴりしていてやさしい言葉もかけてくれなくなったけど、父が生きている頃は、明るく、やさしい母親だった。その母の顔が、まぶたの裏に焼きついて消えてくれない。
 また大地は包丁を下ろし、目を開けた。
 死ぬ前に母にもう一度だけ逢いたい。大地はそう思った。そして自殺がばれないようさりげなく、「今までありがとう」といいたい。大地はいったん包丁をしまい、部屋に戻った。死ぬのは母との食事の後だ。


 漫画を読んだりテレビを観たりして母の帰りを待った。だが七時をすぎても母は帰ってこなかった。今日も遅くなるのだろうかと、大地は不安になった。またいつものように電話がかかってきて、先にご飯を食べてなさいといわれたらどうしよう。そんなに遅くまでは待てない。早く死んで、父のところにいきたかった。無条件に自分を愛してくれる父のところに。
 八時ちょうどに電話が鳴った。
(あっ、大地。お母さんだけど)
 母が息を切らす様子が受話器越しに漂ってきた。
(お母さんね、今日遅くなるから。わるいんだけどセイコーマートかどこかでお弁当買って食べて。お金は後でわたすから。ねえ、わかった?)
 大地は返事をする気にもなれなかった。いつもいつも遅くなるって、何がそんなに忙しいのだろうか。
(ねえ、聴いてるの?)
「うん」大地は不満げに答えた。「聴いてるけど」
(けど、なによ?)
「いつも遅くなってばかりじゃないか」
(しょうがないっしょ。遅くにしか時間つくれないお客さんだっているんだから)
「ぼく、今日は待ってるよ。だから早く帰ってきてよ」
(無理よ。わかるっしょ)
「お客さんとぼくとどっちが大事なのさ?」
(ねえ、大地。お母さん、疲れてんだわ。これ以上いらいらさせることいわないでよ)
「ねえ、どっちが大事? お願いだから答えて」
(いいかげんにしてっ。あんたもう五年生なんだから、お母さんがたいへんなのわかるっしょ)
「わかるけど……」だけど今日はぼくにとって最後の夜なんだよ、と大地は胸の中でつづけた。最後の夜なのに、お母さんはぼくより仕事を取るの?
(とにかくお弁当買って食べて、十時になったら寝なさい。あ、レシート取っといてよ)
 電話が切れた。
 死んでやる……。
 大地は決意した。受話器を置くと、台所にいって包丁を取った。目をかたくつぶり、刃先を喉に向けた。
 手が震えた。視界がぼやけ、死ぬより先に気絶しそうになる。
 駄目だ。やっぱり包丁は怖い。
 ほかにいい死に方はないだろうかと大地は頭をひねった。するといい考えが一つ浮かんだ。日の出町のアイススケート場で死ぬのだ。アイススケート場のリンクの上なら一年中真冬の寒さだから、そこで一晩薄着でいれば凍え死にできるだろう。睡眠薬のかわりに風邪薬をいっぱい飲めば、寒くてもすぐに眠たくなる。あそこは今朝アイスホッケーでさんざんやられた場所だから、拓也たちに対するあてつけにもなる。
 大地は包丁をしまい、家を出た。


 日の出町アイススケート場の駐車場には数十台の車がとまっていた。八時をすぎた今の時間は高校のアイスホッケー部の練習時間だから、この車はすべてその親たちの車だろう。道具が多いアイスホッケーは、親の協力なくしてはできないスポーツなのだ。
 十時の終了時間まで練習見学でもしていようと思い、大地は駐輪場にホワイトホースをとめて中に入った。
 受付のわきに貼ってある練習予定表を見ると、今日の夜八時から十時のリンク使用は釧路実業高校となっていた。全国屈指のアイスホッケーの名門で、この高校の卒業生の多くがクレインズをはじめとするプロのチームで活躍している。
 通路を抜けて扉を開けた瞬間、パックを打つ音や、スティックとスティックがぶつかり合う音、フェンスに身体がぶつかる音などが耳になだれこんだ。監督やコーチのどなり声も、広いリンクに響きわたっている。
 百席ほどのスタンドには部員の保護者らしき大人たちがまばらに座っていた。大地は最上段の隅の席に腰を下ろした。小さな子どもが一人でやってきたのを見て何人かの人が怪訝な目を向けてきたが、すぐに練習風景へと向き直った。部員の弟だとでも理解したのだろう。
 もうアイスホッケーなんて観たくもないと思っていたが、やっぱりプレーを観るとわくわくしてくる。今から死ぬのだという状況も忘れて、つい練習に見入ってしまう。
 釧路実業の部員は三人のゴーリーを含めて総勢三十八人。ちょうど七つのセットができる数だ。五人ずつにわかれたそのセットは、べつべつの色の練習用ジャージを着ていた。黄色、オレンジ色、赤、黒、緑、青、白。どの色のジャージの背中にも、『釧実』と毛筆体の文字が入っている。
 どの色のセットもものすごくうまく、また息もぴったり合っていた。だから大地にはどの色のセットがスターティングラインアップで、どの色のセットがベンチ入りできないセットなのか、判別できなかった。
 こんなにうまくアイスホッケーができたら気持ちがいいだろうな、と練習風景を眺めながら大地は思った。今、目の前に悪魔が現れて、魂と引きかえにアイスホッケーをうまくしてやるといってきたら、迷わず魂を差し出すだろう。そしてすぐにでも拓也たちに「攻めと守り」のリベンジをしてやる。死ぬのを少し後まわしにして。
 痛快だろうな……。
 実際にはありえない話だ。悪魔だとか天使だとか幽霊だとか、そんなものはこの世にいないのだ。だから大地はかわりにお願いした。今日でぼくは死ぬけど、今度生まれてくるときはアイスホッケーがめちゃくちゃうまい子に生まれてきますように……。
 十時きっかりに練習が終わった。部員が次々とリンクを出て、ベンチのまわりで着がえをはじめた。
 リンクの上では真剣な態度でいた部員たちだが、練習が終わればみんな子どもみたいだった。どつき合ったり、誰かが誰かをからかって大声で笑ったり、素っ裸でへんてこな踊りをしたりしている。コーチにどやされても、コーチが去るのを見届けるとすぐにまたふざけ出す。ものすごく楽しそうで、大地の目にはきらきらと眩しく映った。
 部員の親たちが次々とスタンドから去っていく。自分たちの子どもが着がえを終えて出てくるのを、駐車場で待つのだろう。誰もいなくなったスタンドで、大地は一人、高校生たちの着がえを眺めつづけた。きっとあの人たちは子どもの頃からアイスホッケーがむちゃくちゃにうまくて、クラスでもいつもめだっていて、みんなの人気者だったのだろう。たぶんクラスの女子にももてたはずだ。ちょうど今の拓也みたいに。そんな人間に生まれていたら、きっと毎日が楽しくて仕方ないにちがいない。
 世の中はどうしてこんなに不公平なのだろう。大地はアイスホッケーが下手で、人気者どころか、友達が一人もいない。だからここにいる高校生たちや拓也たちみたいに、楽しそうにふざけ合った経験なんて一度もない。家族で旅行にいったこともないし、休みの日にどこかに出かけたことだって一度もない。いや、自分にはその家族すらいないのだ。
「まあいいや」大地は静かに口にした。どうせもうこの世からいなくなるのだ。自分がいなくなるこの世が不公平だろうと公平だろうと、もうどうだっていい。
 リンクにはブルーの車体の製氷車がまわり出していた。ザンボーニ、略してザンボ。あのザンボが練習後の荒れたリンクをならし終えたら、照明がすべて消され、スケート場は閉まる。それまでには高校生たちも着がえを終えてスケート場を出ていくはずだ。
 大地はスタンドから下りた。全員がこのスケート場からいなくなるまでトイレに隠れていよう。スケート場が閉まって場内が暗くなったら、リンクに上がって自殺するのだ。
 独特のエンジン音を唸らせながら、ザンボーニは荒れたリンクの氷をならしている。荷台がないトラックみたいなその車体を見て、大地は懐かしくなった。『アイスホッケーマン』の登場人物「クマみたいな大男」がこのザンボーニの運転士をしているから、七月の半ばにこのスケート場にきて、ザンボーニが走る光景をスケッチしたのだ。そのときと同じ五十歳くらいの小柄な男の人が、疲れた表情でザンボーニを運転している。
 釧路実業の部員がすべて帰り、スケート場にはザンボーニと大地だけが残った。大地はトイレに隠れ、リンクに響くエンジン音が消えるのを待った。あと十分もすれば製氷の作業は終わるだろう。ザンボーニが車庫に入り、スケート場の照明がすべて消されたとき、大地の命も消える。この世にもう未練などなかったが、さすがに身体が震えてきた。


 トイレに入って、もう三十分は経った。
 ザンボーニのエンジンはまだ鳴り響いていた。何をもたもたやっているのだろう。大地はしびれを切らし、様子を見ようとトイレを出た。
 ザンボーニはまだリンクをまわっていた。どうしたんだろうと大地は不思議に思いながら時計を見た。十一時だ。釧路実業の練習が終わってからもう一時間が経っている。
 ザンボーニの運転士と目が合いそうになった。大地はあわてて柱の陰に隠れた。
 あれ……?
 たった今目にしたザンボーニの運転士の姿が頭の中に引っかかった。
 今の人……?
 大地は柱から顔を出して、もう一度運転士を見た。
 嘘……。
 大地はわなわなと震えた。
 こんな馬鹿なことって……。
 青いザンボーニを運転しているのは、先ほどの小柄な男の人ではなかった。もっと大きい、身長二メートルを超すクマみたいに大きい男だった。
 そう、たった今、ザンボーニに乗ってリンクをまわっているのは、大地が描いた『アイスホッケーマン』のコーチ「クマみたいな大男」その人だったのだ。


つづく



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第13話「大地、どん底に突き落とされる」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」
第12話「地獄のアイスホッケー」


 母はまだ眠っていた。
 ほっと息をつき、音を立てずに部屋に入った。敷きっぱなしの布団にへたりこむと、重い疲労がなだれのようにおそってきた。
 住み慣れた部屋に戻ってきたはずなのに、ものすごい違和感だった。身体はまだアイスホッケーをしている感覚の中にいる。スティックでパックをたたく音や、スケートのエッジが氷を削る音、いけ、走れ、捕れ、といった声などが、耳に残っている。プレーの緊張感も残っているし、防具をまとう重たい感じも残っている。もちろんチェックを受けたときの恐怖も残っていた。とくに二度目のチェック、あの気絶させられたときの拓也の殺人チェックの衝撃は、完全に身体にしみついてしまった。
 アイスホッケーがあんなにおそろしいスポーツだなんて知らなかった。シーズン中はクレインズの試合をちょくちょく観戦していて、いっぱしのアイスホッケーファンをきどっていたけど、実際は何もわかっていなかった。今までの大地は、テレビのヒーロー物の戦闘シーンを観るような思いでアイスホッケーを観ていただけだったのだ。
 大地は布団につっぷし、がたがたと震えた。もうアイスホッケーはいやだ! いっときだって考えたくないし、その名を口にしたくもない。たぶんもう大好きなクレインズの試合も観にいかないだろう。大地は知ってしまったのだ。アイスホッケーのおそろしさを。
 気持ちがわるくなってきた。吐いてしまおうか、と思い、大地は立ち上がりかけた。トイレにいって吐いてしまえば楽になれるかもしれない。だけど身体に力が入らず、どうしても立ち上がれない。
 大地は布団にもぐりこみ、目を強く閉じた。寝てしまおう。ぐっすり眠れば、何もかも忘れられる。あと一時間で起きる時間だけど、とにかく眠ってしまおう。起きられなかったら、学校を休めばいい。
 大地は残像を追いはらうべく寝返りを打ち、さらにきつく目を閉じた。


 電話の音で目が覚めた。
 布団の中から時計を見やると、針は三時半を指していた。大地は寝すぎでぼやけた頭で、自分が学校を休んでしまったことをさとった。そしてこれは不登校の第一歩なのだと思った。たぶん明日も休むだろうし、その先もずっと休みつづけるだろう。もう学校になんていきたくなかった。
 電話はしつこく鳴りつづけた。大地は無視を決めこみ、かけ布団を頭までかぶった。だがすぐに考えをかえ、布団から飛び出して電話口へと向かった。おそらく学校からだ。欠席の理由を訊くための電話にちがいない。だとしたら母に知れる前に自分が出て、いろいろと手を打っておく必要があった。
 電話は予想どおり木村先生からだった。朝から何度も電話していたらしい。大地はとっさにせきこんでみせ、ひどい風邪をひいてしまったのだと嘘をついた。そして治るまで二、三日かかりそうだとつけ足した。
(そうか。無理するな)
「はい」
(お母さんは仕事か?)
「はい。帰りも遅いと思います」大地は先手を打った。だからもう電話してくるなと告げたつもりだった。
(そうか。じゃあちょっとお母さんの携帯の番号教えてくれるか)
「持ってません」胸をどきどきさせながら大地は嘘をついた。「携帯電話は持ってないんです」
 本当は父が死んで働きに出るようになってから、母は携帯電話を買った。何かあったらすぐに電話するよういわれている。
 木村先生はかすかに疑わしげな声を発したが、しつこく詮索してはこなかった。お母さんが帰ってきたら電話してくるよう伝えてくれというと、電話を切った。はい、と大地は答えたが、もちろん母に伝える気はなかった。
 受話器を置き、ため息をつきながら部屋に向かった。食卓に母が用意した朝食があるのが見えた。食べなきゃと思ったが、食欲がなかった。大地は朝食のおかずのベーコンエッグに目をやるだけで、手をつけずに部屋に戻った。母に何かいわれたら、学校に遅れそうで食べられなかった、とでもいえばいい。
 布団に倒れこみ、ぼんやりと天井を見つめた。
 長い睡眠のおかげか、今朝のアイスホッケーの恐怖はだいぶ薄れていた。それでも気分は最悪なままだった。頭の中に拓也のアイスホッケーのプレーがちらついていて、それが大地を威圧しているのだ。
 すごいプレーだった。スケート技術。スティックさばき。「攻めと守り」の途中で見せたパワフルなスラップショット。どれも完璧だった。プレーのレベルだけでなく、リンクの上の拓也にはオーラがあった。きっと拓也みたいなやつが将来プロの選手になるのだろう。
 かなわないと思った。五十メートル走を四十メートル差で負けたような敗北感だ。
 おめえはよ、アイスホッケーをなめてたんだ……。
 拓也の声が耳に蘇った。今朝のアイスホッケーのときにいわれた言葉だ。
 だからあんなくだらねえ漫画が描けるんだよ……。
 そうだ、ぼくはアイスホッケーをなめていたんだ、と大地は思った。だからこそ『アイスホッケーマン』なんていう実際にはありえないストーリーの漫画が描けたのだ。あんな漫画を拓也たちが読めば、くだらないと思うのも当然だろう。しかも自分たちがその漫画に登場して、主人公の「ダイチ」にこてんぱんにやられるのだ。ふざけるな、と思うのも無理はない。
 だけど、と大地は思う。本当に『アイスホッケーマン』はくだらない漫画なのだろうか。拓也たちが怒るのはべつとして、漫画そのものはくだらなくはないのではないか。ありえないストーリーだというが、漫画なんてみんなそんなものだ。ありえないストーリーだからこそ、おもしろいのだ。
 大地は自分の漫画はおもしろいと今でも信じている。拓也たちからすればくだらない漫画かもしれないけど、大地にとって『アイスホッケーマン』は命そのものだ。大地はこの漫画にすべてをかけたのだ。父に読んでもらいたくて、お見舞いにいくのを犠牲にして描いたのだ。父が死んだ後、死にたくなった自分を救ってくれたのもこの漫画だった。その漫画がくだらないなんて考えたくない。
 大地は机の引き出しから『アイスホッケーマン』の生原稿を取り出した。この漫画がおもしろいか、それとも拓也たちのいうようにくだらないのか、たしかめようと思った。
 大地は表紙をめくり、読みはじめた。一ページ、二ページと進んでいくうちに、しだいに身体がいやな感じに熱くなり、わなわなと震え出した。
 ちっともおもしろくないのだ。ストーリーは安っぽいし、展開は早すぎるし、ところどころでつじつまが合っていない。絵も駄目だ。アイスホッケーのプレーのシーンは迫力に欠けるし、登場人物の顔も薄っぺらだ。ふきだしの会話も、どれもものすごく寒く感じる。
 嘘だ、と大地は心の中で叫び、もう一度読んだ。だが感想は同じだった。おもしろくない。
 家のチャイムが鳴った。どうせ新聞の勧誘だろうと思い、大地は無視した。だが五回六回としつこく鳴ったので、仕方なく玄関に向かった。
 ドアを開けると、大地はぎょっとした。石川若菜が立っていたのだ。
「ど、ど、ど、どうしたの?」相手にも聞こえるんじゃないかというくらいに心臓をどきどきさせて、大地はどうにか声を発した。「あ、あの……、中に入る?」
「いい」石川若菜は首を横に振った。明らかに怒っている顔だ。
「あの……どうしたの?」
「これ」石川若菜はキティーちゃんのトートバッグの中から紙の束を取り出し、大地につきつけた。「この漫画、あんたが描いたんでしょ?」
 大地は石川若菜が手にする紙の束を受け取った。拓也に奪われた『アイスホッケーマン』の原稿のコピーだった。
「どうしてこれを?」
「とぼけないでよ。あんたが机の引き出しに入れたんでしょ」石川若菜はとがめる口調でいった。「こんなのもらっても、あたしこまるし」
 大地はつき返された漫画の原稿に目を落とした。表紙の余白に「中山大地から愛するあなたへ」と書いてあった。拓也たちのしわざだ、と大地は一瞬でさとった。
「この漫画に出てくる『若葉』って子、あたしでしょ?」
「うん」大地はこくりと頷いた。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。
「そういうのやめてくんない。超メーワクだから」
「ご、ごめん……」はっきりといわれ、大地はうつむいた。ふられたのだとわかり、立っているのがつらくなった。
「正直いってさ、キモいんだよね。だってそうでしょ。自分が知らないところで、自分が漫画に描かれてるってさ」
 キモい、という言葉が胸に刺さり、大地はぐらっときた。今まで何十回、何百回と耳にしてきた言葉だけど、好きな子からいわれるとダメージは何億倍だ。
「とにかく返したからね」
「うん」
「もうしないでね。こういうの」
 うん、と返事したつもりだったが、声にならなかった。全身から力が抜け、しゃがみこんでしまいそうだった。
「噂みたいにになったら、あたしこまるし。ねえ、何でこんなことしたのよ?」
「拓也だよ……」大地は泣きたくなるのをこらえて弁解した。「拓也がやったんだ。ぼくからむりやり取り上げて。それでこの表紙にこんなこと書いて、それで石川さんの机に入れたんだよ」
「最低。人のせいにすんの?」石川若菜は心底軽蔑した目を向けてきた。「滝沢はそんなことしないよ。あたし幼稚園のときから一緒だから知ってるもん。滝沢って乱暴だけど、こんな陰険なことは絶対にしない」
「するよ。陰険なことだって何だってするよ。だって石川さんも知ってるでしょ? ぼくがあいつから毎日いじめられてるの」
「それはそうだけど……。でもあれは中山もわるいんじゃないの? いじめられるようなことしたんじゃない? だってイジメってほとんどの場合、いじめられる方に原因があるじゃん」
「そんな……」大地は愕然とした。石川若菜の口からは聞きたくない言葉だった。
「とにかく滝沢は陰険なことはしないよ。あんたこそ、滝沢のせいにしたり、わる口いったりして、それこそ陰険じゃん」
「石川さん、拓也が好きなの?」思わず口にしてしまい、大地ははっとした。「あ、いや、その……、ごめん」
「べつに好きとかそういうんじゃないしっ!」石川若菜はむきになって否定した。だがその顔は真っ赤に染まっていて、動揺で目が泳いでいた。
 大地はショックでかたまった。もうこのまま消えちゃいたいと思った。
「あたし、帰る」
「ま、待って」きびすを返して外階段を下りようとする石川若菜を、大地は思わず呼びとめた。「ぼくの漫画、どうだった?」口にしてから、どうしてこんな質問したのだろうと後悔したが、もう遅かった。
 石川若菜は動きをとめ、大地を見た。「正直にいっていい?」
「うん」大地は頷いたが、感想を聴く前からもうめまいがしていた。正直に、と切り出されたからには否定的な感想がつづくのは明らかだ。
「超つまんなかった」石川若菜は腐ったものでも食べたような顔をした。「話がどうこうじゃなくて、登場人物がつまらないっていうか、生き生きしてないっていうか。会話もへんだし」
「へん……」
「うん。マジへん。たぶんさ、それって中山がみんなと遊んだり話したりしないからじゃない? だからわかんないんだよ。人の気持ちとかそういうのがさ。前にテレビに出てた漫画家がいってたけど、漫画を描くのにたいせつなのは絵のうまい下手じゃなくて、人間としての経験なんだって。むずかしいことはあたしもわかんないけど、中山って友達いないしさ、だからみんなが普通にやってることもやってないじゃない? だから中山そのものがつまらないっていうか、だから漫画もつまらないっていうか……」
 石川若菜の話は長々とつづいたが、途中からはまったく耳に入らなかった。話の間、大地はぼんやりと焦点の合わない目で外階段の向こうの町並みを見下ろしていた。自分がどんな姿勢でいるのかわからない。立っているのかしゃがんでいるのかさえわからなかった。身体のすべての機能がぶっ壊れたみたいに、ただぼう然とかたまっていた。
 気づいたときには目の前には誰もいなかった。石川若菜がいつどのように帰っていったかもおぼえていなかった。


つづく





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道下森オフィシャルブログ「魂の落書き」

第12話「地獄のアイスホッケー」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」
第11話「危険な放課後」


 母を起こさないよう静かに家を出て、ホワイトホースにまたがった。あたりはまだ暗い。大地は自転車のライトをつけ、寒さに震えながらペダルをふんだ。
 向かう先は日の出町のアイススケート場だ。昨夜奈良から電話があり、朝の四時半にスケート場にくるよういわれたのだ。学校以外の場所に呼び出されるなんて今までにないパターンだった。史上最悪のイジメが待っているのはまちがいなかった。
 スケート場にはすでに拓也や翼ら、五年二組のアイスホッケー部の部員がきていた。全部で八人。それだけの数がいっせいにおそいかかってきたらと思うと、恐怖でちびりそうになる。
 大地はホワイトホースを駐輪場にとめ、小走りでみんなのもとへ向かった。
「遅えよ」拓也が声を落としつつすごんだ。「何のためにこんなに早く呼び出したと思ってんだよ」
「しかもこいつチャリだぜ。ムカつくよな」翼がいった。「おれら防具があるから歩きだってのによ」
「なまら重かったわ」野宮大介がつづけた。「いつもは母ちゃんの車だもんなあ。今日ばかりは親のありがたみがわかるべ」
 言葉のとおり、みんなの足元には防具が入ったバッグがあった。スティックもある。何がはじまるんだろう。こんなに朝早くから、アイスホッケーでもやるのだろうか。
 拓也が大地を一べつし、その目を奈良に移した。「鍵持ってきたか?」
「ああ。母ちゃんのカバンからギッてきた」
「よし。開けろ。静かにな」
 奈良の母親はこのアイススケート場で受付の仕事をしている。その母親から無断で鍵を拝借してきたらしい。
 奈良が鍵を開け、オーケー、と指で輪っかをつくった。手慣れた動きだ。今日だけでなく、ときどきこうやって侵入しているのかもしれない。ほかのスケート場では無理だろうが、老朽化がはげしく管理もずさんなこのスケート場ならばれないのだろう。
「よし。みんな入れや。静かにだぞ」拓也がいった。「コロ、おまえもだよ」
「あの……、何をやるの?」
「ああっ? ホッケーに決まってんべや。早くしろや」
 ホッケー? アイスホッケー? 全国大会優勝を狙う部員にまじって、アイスホッケーをやる? そんな馬鹿な……。
「あ、あの……、ぼく……」
「ああっ? ぐずぐずしてねえで、早くしろや」
 逃げようか、と一瞬考えたが、拓也ににらまれると、足がすくんで身体の自由が利かなくなった。大地はびびりつつ、拓也たちの後について真っ暗な通路を歩いた。全身ががたがたと震えている。
 先頭を歩いていた誰かがリンクの扉を開けた。中は通路と同じく真っ暗で、リンクの氷が放つ冷気で真冬みたいに寒かった。
 誰かが電気のスイッチを入れたらしく、場内がぱっと明るくなった。真っ白なリンクの広がりやその周囲のフェンス、選手が入るボックス、百席ほどの観客席などが、眼前に現れた。
「おまえら早く着がえろや。六時までに終わらせねえとヤバイんだからよ」
 拓也がいうより早く、部員らはみなベンチで着がえをはじめた。
「おまえも着がえろや」ぼんやりとみんなの着がえを眺めていた大地を、拓也が叱り飛ばした。
「だけどぼく防具ないから……」
「おい、奈良。持ってきてねえのか?」
「持ってきた」奈良が立ち上がり、赤いバッグを大地の足元に投げつけた。「おれの弟の防具持ってきたから使えや」
「だけど……」
「いいから早くしろや」拓也がどなった。「マジどんくせえな、こいつ」
「あの……、ホントにホッケーやるの?」
「ああっ? 決まってんべ」
「ホッケーって、試合ってこと?」
「本当はそういきたいとこだけどよ、人数がいねえから『攻めと守り』だ」
「攻めと守りって?」
「マジでうぜえな、こいつ」拓也はめんどうくさそうな顔で舌打ちした。「だからよ、攻めと守りっつうのは、フォワードとディフェンスにわかれてやる練習だよ」
「日の出小アイスホッケー部伝統の練習メニューさ」翼が横からいった。準備を終えたらしく、あとはヘルメットをかぶるだけという出で立ちになっている。「コートの半分だけ使ってさ、フォワードの三人がパスをまわしながらゴールをめざすんだ。そんで、ディフェンスの二人かゴールをはばむためにチェックにいく。ゴールを決めたらフォワード組の勝ち。チェックしてパックを奪ったらディフェンス組の勝ち。簡単だろ?」
「無理だよ。だってぼく本格的にアイスホッケーやったことないから」
「ああっ?」拓也がにらんできた。「ふざけんなよ。漫画じゃ超うまかったじゃねえか」
 大地はぎくりとした。拓也たちは『アイスホッケーマン』を読んだのだ。それで怒って、このアイスホッケーを計画したのだ。
「あの漫画のとおり、おれらをぼこぼこにしてみろや」拓也は不敵に笑った。「おまえにはセンターフォワードをやらせてやるからよ」
 着がえを終えた部員らが、開き戸を押して次々にリンクに飛び出していった。川に放たれた魚のように、氷の上に乗ると同時に思い思いにすべりはじめた。
 大地にかまっていた拓也も、ヘルメットをかぶってリンクに出た。王者の風格たっぷりに力強いすべりを見せ、氷の上を疾走していく。
 突然、拓也がスティックでリンクの氷を二度たたいた。鋭い音が広いリンクいっぱいに響きわたった。その音を聞いたアイスホッケー部員がそれぞれの動きをやめ、リンクの外側を時計の逆まわりにすべり出した。
 嘘ぉ……。
 リンクの外周を滑走する同級生を見て、大地は言葉をうしなった。
 すげえ……。
 八人が大地の目の前を通過するとき、氷を削るエッジの音が耳を切り裂くように飛んでくる。その八つの音の最後の余韻が消える頃には、先頭集団はもう反対側のフェンスに差しかかっている。
 速い……。
 先頭は拓也だ。むちゃくちゃ速い。他の七人とは別格のスピードだ。二番手は翼で、拓也にこそじりじりと離されつつも二番手はキープしている。奈良はケツから二番目。最後尾はゴーリー用の防具をつけた野宮大介だから、実質は奈良がビリッケツだ。それでも大地の目にはじゅうぶんに速く映った。
 ときおり勢いあまって転ぶ者も出た。倒れたままの姿勢で氷の上をすべり、フェンスに激突する。カーレースなら炎が出るクラッシュシーンだ。見ている大地は思わず、うわっ、と声をもらした。だが誰もがこんなのはあたりまえなんだといった感じに立ち上がり、集団を追って平然とすべり出した。実際、転倒はあたりまえのようだった。二番目にうまい翼ですら転んでいた。つまりこのリンクの周回は大地に見せつけるためのデモンストレーションではなく、練習の一環なのだ。後々おこなわれる試合のため、あるいは自らの上達のため、ぎりぎりのスピードで自分を追いこむ挑戦なのだ。ウォーミングアップの段階から全員が高い意識を持って取り組んでいる。正式な練習ではないにもかかわらずだ。おそらくそうした心がまえを、監督やコーチに徹底的にたたきこまれているのだろう。さすがは全国屈指の強豪日の出小学校アイスホッケー部のメンバーだ。
 また拓也がスティックでリンクをたたいた。その音を合図に全員がいっせいにとまり、反対まわりに滑走をはじめた。その動きにいっさいの無駄はなかった。サバンナを駆ける肉食動物のような完璧な動きだ。
「何やってんだよ、コロくそ」拓也が周回の列からはずれ、ベンチへと戻ってヘルメットを脱いだ。「まだレガースもつけてねえのかよっ」
「あ、うん」
「早くしろや」
 拓也にせかされ、大地はベンチに座ってあたふたと防具をつけた。
「つけたか? つけたら、これスティックな。ライトハンドでいいべ?」
 大地は頷いた。大地はライトハンドだった。もっともアイスホッケーは野球などとちがって右利きだからライトハンド、左利きだからレフトハンドという明確さはない。兄貴のお下がりのスティックがレフトハンドだったから自分もレフトハンドになった、というくらいあいまいなものだ。
 拓也からスティックを受け取ると、大地は現実を思い出した。そうだ。今からここでアイスホッケーをやるんだ……。
「ねえ。ぼく、やっぱり無理だよ」
「ああっ? 何が無理なんだよっ?」
「アイスホッケー。『攻めと守り』なんてぼくできないよ」
「ふざけんなよ。てめえ、漫画じゃ格好いいこと描いてたじゃねえか」
「あれはべつにぼくの話じゃないから……」大地は苦しまぎれに嘘をついた。「ほかの登場人物だって、きみたちのことじゃないし……」
「バレバレの嘘いってんじゃねえ。いいか、おれらみんなマジでブチキレてんだからな。あんななめた漫画描きやがったんだから、あの主人公みてえにプレーできなかったら許さねえぞ」
「だってあれは漫画の話で……」
「いいから早くリンクに上がれやっ」拓也は有無をいわさず大地を立ち上がらせた。「ホッケーが甘くねえって教えてやっからよ」
 拓也に押され、大地はリンクに上がった。冬の体育の授業以来のスケートだったが、どうにかすべることはできた。だけどその動きは低学年レベルだ。とてもじゃないが試合形式のプレーなんてできっこない。
「よし、したらやるべや」拓也がスティックで氷をたたいた。「ゴリ、ゴール入ってくれ」
 拓也に呼ばれた野宮大介がゴールに立った。
「ディフェンスはおれと翼な。そんでフォワード組が裕太と光」
 おう、と二人のフォワードはスポーツ選手らしい声を上げ、センターサークルの両わき、ウィングのポジションについた。宮内裕太と松山光。二人とも大地と同じく小柄だが、アイスホッケー部に名を連ねるだけあって運動神経はいい。
「おい、コロ。何ぼおっとしてんだよっ。おめえはセンターフォワードだっていったろ」
 拓也の声がリンクに響き、大地はぎくっとした。
「早くポジションつけよっ」
「ぼく、センターフォワードなんてできない……」
「早くしろや!」ベンチスタートとなった奈良がリンクに出てきて、大地をコートの中央へと押し出した。
「ぼく無理だよ」しぶしぶセンターサークルに入ると、大地は泣きそうな顔を右ウィングの宮内裕太に向けた。「センターフォワードなんて絶対にできない」
「漫画でもおまえセンターフォワードだったべや」裕太はにやにやといった。言葉にとげがある。「おれらが絶妙なパス出してやっから、絶対決めろよ。漫画みたいに格好よくよ」
「漫画じゃ五分で五点決めてたっけな。リベンジのシーンでよ」左ウィングのポジションに入った松山光も意地わるくいった。「そんくらいやってくれんだべ?」
「だから無理だって」
「無理でも何でも、ちゃんとやらねえと怪我するぞ。拓也も翼も、漫画読んでかなりキレてたからな」光はディフェンス組の二人を見やった。「っていうかおれもムカついたけどな。ホントはおれもディフェンスやりたかったわ。チェックかませられっからよ」
 やっぱりみんな怒っているんだ、と大地はびくついた。無理もない。誰だって自分がぶざまにやられる役で漫画に登場させられれば、ムカつくに決まっている。
「おい、やるぞ」拓也がディフェンスのポジションから声を上げた。「コロ、フェイスオフなしでいいから好きに攻めてこいや」
 そういわれても、大地はあたふたするだけだ。攻めろといわれても何をどうすればいいのかさっぱりわからない。
「ほら、こいって!」拓也がスティックで氷をたたいた。
「おい、いけや」左ウイングの光がいう。「早くしねえと、マジで拓也キレる寸前だぞ」
 大地は拓也を見た。ディフェンスゾーンの左側でスティックを動かしている。右側に翼。その先のゴールに、ゴリこと野宮大介がどっかりと立っている。
「おい、コロ」光がふたたびせかした。「早くしろや。拓也、マジでキレるぞ。こっちにまでとばっちりがくるべや」
 たしかに早くプレーをはじめなければ、拓也のいら立ちが増すばかりだ。だけどどこへ攻めていけばいいのだろう。『アイスホッケーマン』のリベンジのシーンでは、開始直後にドリブルで中央をつき、すかさず一点目のゴールを決めた。しかしそんな芸当などできるはずもなかった。チェックされてぶっ倒れるのがオチだ。
「おい、コロ。早くしろや!」
 光がスティックをたたいた。大地はびくっとし、とっさにパックを光にわたした。
「おいおい、もうパスかよ。逃げてんじゃねえよ。フリーだべやあっ!」
 コートの外からヤジが飛んだ。奈良の声だ。
 光がワンツーで返してきた。パックは大地の足元ではなく二メートル前方をすべっていく。
「ぼけっとすんなやっ」右手から裕太の声が飛ぶ。「捕りにいけやあっ」
 大地はいわれるままにすべり出し、パックを追った。出足は遅れたものの、光が出したパスがゆるかったので、どうにか追いつけそうだった。
 パックを捕ろうとスティックをのばしたところで殺気を感じた。ヤバイ、と思ったときにはもう遅かった。重い衝撃を全身に受け、大地は仰向けに倒れた。
「ほら、起きろや」拓也が大地を見下ろしていた。今のチェックは拓也からのようだ。
 大地が倒れたままでいると、耳元に拓也のスティックが振り下ろされた。大地はびびり、起き上がろうと身体に力を入れた。どうにか立てたが、膝ががくがくと震え、すぐにその場にへたりこんだ。
「何だよ、そのざまはよっ?」
「ぼく、もう駄目……」
「ああっ? ふざけんなや、てめえ」
 いつのまにか翼や光らも集まってきていた。全員あきれた顔で大地を見下ろしている。
「あれしきのチェックでびびってんじゃねえよ。低学年のやつらだってもっと気合い入ってんぞ」
 ほら立て、と大地はむりやり立たされた。立つには立ったが、まだ膝ががくがくと震えている。
「ほれ、センターサークルに戻れ。コロ、おめえのパックからだ」
 全員それぞれのポジションに散っていった。
「ほら、攻めてこいやあっ」
 大地はスティックを強く握り、パックを運びながら前に出た。すぐに翼がチェックにきた。大地は接近戦を嫌い、今度は右ウイングの裕太にパスを出した。スティックをうまく振れずにパスは短くなったが、裕太がちゃんと捕ってくれた。大地はほっとした。
「コロ、つっ立ってんじゃねえっ。走れっ」パックを受けた裕太が叫んだ。
 大地ははっとして前へとすべり出した。そこにパスがきた。大地はスティックをのばした。空振り。バランスをくずして尻もちをついた。
 流れたパックを光が捕りにいった。フェンス際で追いつき、そのパックをゴール裏に出した。そのパックを、裕太が捕りにいく。ディフェンスの翼がチェックにいく。
「いつまで寝てんだっ」光がどなった。「立てやっ。プレーつづいてんだぞ」
 自分に対しての声だと気づき、大地はあわてて起き上がった。
 ゴール裏のスペースで裕太と翼の競り合いがつづいている。裕太が苦しまぎれにパックを出した。パックは左のフェンスへとすべり、光がそのパックを追って猛然とすべる。
「コロ、フォロー!」裕太が叫んだ。
 右から左からどなられ、大地の頭はパニックになった。指示をもらっても、そのとおりに身体が動かない。だいたいフォローって何だろう?
「コロ! 早くもらいにいってやれやっ」また裕太が叫んだ。「捕られちまうべや!」
 大地はとりあえずパックを持つ光の近くへと向かった。だが視線の先に、ものすごいスピードで光にチェックにいく拓也をみとめ、足をとめた。パスなどもらいにいったら、拓也の狙いが光から自分へとかわってしまう。
「コロ!」
 光の声がリンクに響いた。パスをもらいにこいと呼んでいるのだろう。だけど足がすくんで、身体が動かない。
「コロ!」
 ふたたびどなり声が響いた。大地はぎくりとしたが、やっぱり足は動かなかった。大地はぼんやりとつっ立って、ことのなりゆきを見つめた。拓也が獲物を追うライオンのような迫力で光におそいかかり、身体ごとぶつかってフェンスに押しつぶした。こぼれたパックを奪うと、拓也は倒れた光を置き去りにしてフェンスを離れていく。
 車にひかれた猫を見るような思いで、大地は倒れた光に近づいた。自分がびびってパスをもらいにいかなかったせいだと、責任も感じていた。「だ、大丈夫?」
「馬鹿っ。くるなっ。いいからプレーつづけろやっ」
 大地を追い立てながら、光は立ち上がった。すぐにすべり出し、拓也を追いかける。だが拓也は光を簡単に引き離し、さらにチェックにきた裕太もかわして、無人のゴールにスラップショットをたたきこんだ。
「ディフェンス組の勝ちだあ」ボックスから声が飛んだ。「裕太、光、だらしねえぞ」
「しょうがねえべや。こっちには、ど素人がいるんだからよお」光が反論し、なあ、と裕太に同意を求めた。
「マジ、こいつありえねえわ」裕太がスティックを大地に向けた。「プレー中につっ立ってるやつはじめて見たわ」
「よおコロ。おめえマジで『クマみたいな大男』に稽古つけてもらえや」奈良がからかってきた。「それともかわりにおれがコーチしてやろうか? 『おい、ガキ。しっかりやれ』ってな感じでよ」
「クマみたいな大男」の台詞をまねているつもりらしかった。渾身をこめて描いた漫画を馬鹿にされて悔しかったが、今はそれどころではなかった。早くこの「攻めと守り」が終わってくれることだけを願っていた。
「よし、セットかわんべ」拓也が自分のポジションに戻りながらいった。「裕太、光、下がっていいぞ。そんで奈良とレオ、フォワード入れや」
 おう、と奈良が声を上げ、リンクに上がった。レオこと佐藤玲央も勢いよくボックスを飛び出した。二人にポジションをゆずって、裕太と光はボックスに下がった。
「ぼくは?」大地はよたつく足取りで拓也に近づいた。「ぼくは交代しないの?」
「おまえは出ずっぱりに決まってるべや。主人公なんだからよ」
「だからあの漫画はちがうんだよ。ねえもう許して。怒ったんならあやまるから……」
「うるせえ。ほら、いいから早くポジションつけよっ」
 拓也は大地をつき飛ばすと、それ以上何もいわずにかまえを取った。
「コロ、起きろよ」奈良が近づいてきて大地をうながした。「おまえ今度はウイングやれや。センターはゆるくないべ?」
 奈良の提案に大地はほっとして頷いた。左右からパスがくるセンターよりは、ウイングの方が簡単そうだ。
「よし、いくべや」奈良がパックを運んでアタッキングゾーンへと攻め上がった。高学年チームのお荷物といわれているらしい奈良だが、大地の目にはその動きでさえスーパースターに見える。
 翼がチェックにいった。すかさず奈良は右にパックを出した。
「コロ、いけっ!」
 パックは右側のコーナーに向かって流れていった。大地はそのパックを追ってすべり出した。パックがフェンスにあたる前に追いつきたかったが、やはり無理だった。パックがフェンスにあたって跳ね返ったところをおさえようと、大地はスティックをのばした。
 その瞬間、脳が揺れるほどの衝撃で目の前が真っ暗になった。重いかたまりが、身体にぶつかってきたのだ。何が起きたのかわからないまま大地はフェンスへとはじき飛ばされ、身体がフェンスにぶちあたると同時に、重いかたまりにそのまま押しつぶされた。
 拓也にチェックされたのだ、と大地は遠ざかる意識の中で思った。自分を痛めつけた重いかたまりが身体から離れると、大地は氷の上にくずれ落ちた。


「……キロヨ、コロ」
 ん?
「起きろよ、コロ」
 誰かが身体を揺すっている。
 大地はゆっくりとまぶたを開けた。かすんだ視界に拓也の顔が映った。そのまわりに翼や奈良たちの顔……。
「起きろよ。まだ終わってねえぞ」
 そうか、アイスホッケーをやっていたんだ、と大地は思い出した。チェックを受けて気絶していたらしい。どれくらい気をうしなっていたのだろう。徐々にはっきりしてきた目で場内を見まわし、時計をさがす。まだ五時をちょっとすぎたところだ。かなり長い時間気をうしなっていたように感じたが、実際はほんの一、二分、もしかしたら数十秒しか経っていないのかもしれない。
「ほら、立てや」拓也が大地の手をつかみ、むりやり引っ張った。
「やだ」大地は幼稚園児が駄々をこねるように泣き声を上げた。「ぼく、もうできない」
「甘えんなよ、コロくそ。あんなチェックで何びびってんだよっ」
「だけど、反則じゃないか」
「反則じゃねえよ、あんなの普通のプレーだって」
「嘘でしょ?」大地は耳を疑った。あの殺人チェックが普通のプレー?
「嘘じゃねえって」翼が答えた。「普通だって。っていうか、むしろ手かげんしてるっしょ、拓也だって」
 手かげんだって? 手かげんしたチェックでぼくは気絶しちゃったのか……?
「おめえ相手にマジでやれっかよ」拓也は鼻で笑った。「その気になりゃもっとすげえのぶちかませるって。見せてやろうか?」
 大地はぶるぶると頭を振った。
「おまえこんなんでびびってたらホッケーなんてできねえぞ。大人になったら乱闘だってありなんだからよ」
「あり」ではないだろうけど、実際、アイスホッケーはサッカーや野球とちがって試合中の乱闘もペナルティーボックスに入るだけで退場にはならない。何分か後にはリンクに戻ってプレーできるルールだ。トップリーグの試合を観にいけば、かなりの確率で選手同士の取っ組み合いが見れる。大地もクレインズの選手が乱闘するのを何度も見ている。
「わかったか? これがホッケーなんだよ」拓也が大地をにらんだ。「おめえはよ、アイスホッケーをなめてたんだ」
「なめてないよ」
「なめてたんだよっ」拓也がスティックを強く氷にたたきつけた。「だからあんなくだらねえ漫画が描けるんだべや」
「くだらない……?」大地は思わず拓也を見返した。
「何だ、てめえ、その目はよ」拓也の顔つきがさらにきつくなった。「くだらねえべや。あんな嘘っぱちよ。あんなのありえねえんだよ。いいか、ホッケーってのは年季がいるんだよ。昨日今日はじめたやつがよ、ちょっと特訓したくらいでうまくなれるスポーツじゃねえんだっ。おれら幼稚園からやってんだぞ。毎日きつい練習してよ、監督にもどなられて、それでここまでできるようになったんだ。それだけやってるおれらが、何で一カ月やそこら特訓したやつに負けるんだよっ。いくら漫画だからってよ、真剣にホッケーやってるおれらからすればムカつくんだって、ああいうのはよっ。ふざけんなっ」
 言葉がつづくにつれて語気がはげしくなり、最後にはほとんど殴られそうな勢いだった。
「てめえはホッケーだけじゃなくて、おれらのこともなめてんだよ。だからあんな漫画が描けるんだ」
 ほら立て、と拓也は大地をむりやり起こした。
 大地は立ったが、身体に力が入らない。意識も真っ白で、何だかぼおっとしていた。
「やめだやめ」拓也があきれた声を上げた。「こんな虫けらみてえなやつ相手にしたって、疲れるだけだわ。みんな撤収すんべや」
 拓也の声で全員リンクをあとにし、ベンチで着がえをはじめた。
「おめえも、もたもたしてねえで着がえろよ、コロくそ」
 大地はこくりと頷き、リンクを出た。
「最後にリンクに一礼だ、ボケ」拓也にどつかれ、大地はよろめきながら頭を下げた。



つづく

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第11話「危険な放課後」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」
第10話「新学期」


 始業式が終わると、すぐに帰りの会になった。今日は授業はなしだ。帰りの会も、翌日の連絡事項を確認するだけですぐに終わった。
 大地はすばやくランドセルを背負い、逃げるように教室を出た。
「待てや」
 奈良の声が背中で聞こえた。大地はぎくりと足をとめ、びくびくしながら振り返った。奈良がズボンのポケットに手をつっこみ、チンピラみたいな動きでこちらに近づいてくる。
「逃げてんじゃねえよ」奈良は大地の尻に軽い蹴りを入れると、こいよ、というふうにあごをしゃくって窓際の拓也の席へと歩いた。拓也のほかに翼と大介もいる。
「よお、コロくそ」拓也が座ったまま大地をにらんだ。「さっきのあれなんだよ」
「あれって?」
「とぼけてんじゃねえよっ。木村にチクったべや。おれらがおまえのこといじめてるってよ」
「チ、チクってないよ」
「じゃあ何で木村があんなこというんだよ。しかもおれを名指しでよっ」
「知らないよ……」
「とぼけてんじゃねえよっ」
 ものすごい音とともに机が倒れた。拓也が机を蹴ったのだ。まだ教室に残っていた何人かの児童から悲鳴がもれた。
 拓也が立ち上がり、大地に近づいた。「コロくそ」
 何? と口にしたつもりだったが、声が出てこなかった。自分より二十センチ近く大きい同級生に完全にのまれていた。
「おめえ、父ちゃんが死んだからって、おれらが同情して仲間になるとでも思ったか?」
「べ、べつにそんなこと、思ってない……」
「じゃあ何で木村にあんなこといわせたんだよっ?」拓也は大地の胸ぐらをつかみ、はげしく揺さぶった。「今なら仲間に入れてもらえるって思ったんだべや? なあ? おれもおまえと同じで父ちゃんがいねえからってよっ」
「ち、ちがうよ」胸ぐらを強くつかまれながらも大地は抵抗した。「ぼく、木村先生に何も……」
 拓也は大地の言葉を最後まで聴かず、つかんでいた手を一気に離した。その拍子に、大地はよろめき、尻もちをついた。
「わかったよ」拓也はいった。「仲間に入れてやるよ」
「えっ?」
「おめえも今日からおれらの仲間だっていってんだよ」
「喜べよ」奈良が不敵に笑った。「な、うれしいべ?」
 冗談じゃない。こんな連中の仲間になんてなりたくない。
「何だよ、その顔はよ?」ゴリこと野宮大介が、ゴリラみたいな顔を近づけてきた。「仲間になりたくねえってか?」
 大地は小さく首を振った。
「仲間に入りてえんだな?」
 大地はこくりと頷いた。仲間になんか入りたくなかったが、そういったら何をされるかわからない。
「よし。じゃあ仲間に入るための儀式をやっからよ」拓也が楽しげにいい、仲間と目を合わせてにやりと笑った。
「ギシキって?」
「試験みてえなもんだ」
「試験なんてするの?」
「あたりまえだべや。翼だって奈良だって受けたんだぞ。もちろんゴリだって。なあっ?」
 拓也の問いかけに、三人は頷いた。
「だからおめえも試験受けるんだよ。わかったな?」
 いやな予感を抱きつつも大地は頷いた。
「よし。じゃあよ、クラスで好きなやつの名前いえや」
「えっ?」
「好きな女子だよ。いるべや」
「い、いないよ」どぎまぎしながら大地は答えた。
「嘘こくんでねえっ」大介が蹴りを入れてきた。
「やめれ、ゴリ。コロは仲間なんだからよ」拓也が野宮大介をたしなめ、大地に笑いかけた。「仲間なんだからいえるよな、コロ」
 仲間じゃなくていいから、殴っても蹴ってもいいから、好きな人の名前だけはかんべんしてほしいと大地は思った。
「いえよっ」
「いないんだ」大地は嘘を決めこんだ。「ホントにいないから……」
「石川だべ?」
「えっ?」心臓がどきっと飛び跳ね、顔がかっと熱くなった「ど、どうして……」
「わかったってか?」拓也が意地わるくにやついた。「おめえ見てりゃ誰だってわかるって」
 バレバレなんだよ、とほかの三人がからかってきた。
「石川かあ、やっぱりなあ」拓也はにやにやと大地の顔を覗きこんだ。「こいつ、ちろちろ見てるもんなあ、石川のことよ」
 大地は恥ずかしくて死んじゃいたくなった。タイムマシンに乗って過去の自分のもとにいき、石川若菜をちろちろ見るのをやめさせたいと心から思った。
「どんなとこが好きなのよ?」翼が目をぎらぎらさせて訊いてきた。
「やっぱりおっぱいか?」奈良が自分の胸の前で両手をいやらしく動かした。「なっ、そうなんだべ? あいつ、けっこうふくらんでるもんなあ」
「ちがうよ」
「じゃあどこだよ?」奈良が下品な顔を近づけてきた。汚らしいツバが大地の顔にかかった。「おっぱいじゃなかったらケツだろ? あいつケツもいい形してんだよ。おれ、一回さわらせてくれって頼んだことあるもんよ。たたかれたけどよ」
「なあ、どこだよ?」拓也が訊いた。「いわねえってことはマジでケツなのかよ?」
「ちがうよ。あの……、やさしいとこ」大地は仕方なく答えた。
「やさしいとこ、って、おめえ、石川にやさしくされたことあんの?」
「ないけど……」大地はむなしく答えた。やさしくされるどころか、話したことすらほとんどない。「だけど、ウサギの世話とか……」
「そりゃ、ウサギ小屋の係だからだべや。何おまえ、そんなとこまで見てんの?」
 ストーカーじゃんよ、と四人はげらげらと笑い出した。
「まあいいべや」拓也が笑いを静めながらいった。「とにかくよ、そのやさしい石川によ、おめえコクれ」
「コクる?」
「告白するんだよ」
「ええっ? やだよ」
「やるんだよっ」拓也が笑い顔を消し、大地を鋭くにらんだ。「やらねえとてめえぼこぼこだぞ」
「で、でも……」大地はうつむいた。「できないよ……」
「っていうか、もう石川に話つけちったし」翼がいった。「五時に鳥取橋の河川敷に呼んどいたから」
「ホントに?」
「マジだって」翼が真剣な表情でいい、なっ、とまわりの同意を求めた。
「ああ、呼んだよ。コロが話あるから、っていったら、あいつくるっていってたぞ。向こうもおまえのこと好きなんじゃねえ?」
 まさか、と思いつつも、奈良の言葉は大地の心を刺激した。胸がどきどきしてきた。
「だから絶対いけよ。おめえ、石川に恥かかせたくねえべ?」
 橋のたもとの河川敷で待つ石川若菜の姿を大地は想像した。もしもいかなかったら、やっぱり恥をかかせちゃうだろうか。
「でも、告白って、どうやればいいの?」
「ラブレターに決まってんべや」拓也がまたにやりとした。「好きだって気持ちを書いてよ、お願いしますってわたすんだよ」
「で、できるかな?」
「やるんだよ」拓也は鋭くいった。「いいな、絶対にいけよ。いかなかったらぼこぼこだからな」
 いこうぜ、と四人は教室を出ていった。


 五時が近づいてきた。
 大地はアディダスのロゴが入ったオレンジのパーカーとブルーのジーンズで決めると、ホワイトホースに乗って河川敷に向かった。自転車になど乗らなくても家から河川敷まで五分でつくが、石川若菜に自分の愛車を見せたかったのだ。
 背中には三〇リットル容量のバックパックを背負っている。ブルーとブラックのツートンカラーの本格的なバックパックだ。釧路川の旅行に備えて父が買ってくれたものだった。普段の生活に使うには大きすぎて不格好だが、父からの最後の贈り物だから、大地はどこにいくにも背負っていこうと思っている。
 このバックパックに『アイスホッケーマン』の原稿のコピーが入っている。ラブレターのかわりだ。この漫画のラストで、北米リーグに挑戦する主人公のダイチが、好きな女の子に告白する。その女の子のモデルはほかでもない石川若菜で、名前も「若葉」と一文字かえただけだった。だからこの漫画はじゅうぶんにラブレターの役割を果たすはずだ。生原稿はわたせないけど、コピーならプレゼントしたってかまわない。
 河川敷についた。
 道ばたにホワイトホースをとめると、土手のスロープを下りて石川若菜をさがした。胸が何かにかきまわされているみたいにざわざわしている。息が苦しい。自分が自分じゃないみたいだ。
 大地はときめいていた。拓也たちに強制的にやらされている告白だったが、何となく自分にとって幸せな思い出になるのではないかと感じていた。もしかしたら、石川若菜も喜んでくれるのではないか。好きという気持ちを、自分が描いた漫画にのせて伝えるのだ。こんな格好いい告白の仕方があるだろうか。
 少なくともこの漫画をきっかけに仲よくなれるだろうと大地は期待していた。30ページもの大作を描いてのけた自分を尊敬してくれるかもしれない。この漫画を『少年ドリームジュニア漫画新人賞』に応募するといったら、どう思うだろう。
 大地は立ちどまり、石川若菜を待った。
 突然、うわあっ、という大声が聞こえ、大地はぎょっとして声のする方を見た。橋脚の陰から拓也、翼、大介、奈良の四人が飛び出てきて、横一列に並んでこちらへと走ってきた。
 大地は一瞬にして理解した。ワナだったんだ。石川さんの名前を使ってぼくを笑い者にするだけだったんだ……。
 だけど、と大地は思った。石川若菜がいないということは、告白しなくてもすむということだ。だったら連中の狙いは何だろう。
「よお」四人のワルガキが大地の目の前にきてとまった。
「石川さんは?」
「くるわけねえべや」拓也が鼻で笑った。「おまえ、マジにくると思ってたのかよ?」
 馬鹿でえ、と四人は大声で笑い出した。
「おまえが話あるっていったって、誰がくるかよ。キモい、って思うだけだべや」
 四人はおかしくてたまらないらしく、その笑いはしばらくやみそうになかった。奈良などは洋服が汚れるのもおかまいなしに、芝の上で笑いころげている。
 一番早く笑いから覚めたのは拓也だった。拓也は軽い笑いを残した顔で、大地の正面に立った。「よお、コロくそ。おまえちゃんとラブレター持ってきたかよ?」
 それか、と大地は四人の狙いを理解した。ラブレターだ。大地が書いた石川若菜あてのラブレターを取り上げようというのだ。きっと教室のみんなの前で読み上げたり、掲示板に貼ったりするつもりなのだろう。
「早く出せよっ」
 大地はラブレターを用意していないから、拓也たちのもくろみははずれたことになる。その残酷な手口にはまらなかったのはラッキーだったが、大地がラブレターのかわりに用意した『アイスホッケーマン』の原稿には、べつの問題があった。拓也や大介、翼、奈良をはじめとする五年二組のアイスホッケー部員が、リンクの上で主人公のダイチにこてんぱんにやられるシーンがあるのだ。一度は赤っ恥をかいたダイチが、拓也たちにリベンジするシーンだ。一応、それぞれの登場人物の名前はかえてあるけど、読めば誰のことかすぐにわかるだろう。
「出せっていってんだろ」
「持ってきてない……」
「何だと、てめえ。約束やぶったのかよっ?」
「拓也。バッグだ」翼が目ざとくいった。「たぶんバッグの中に入ってんだ」
 大地はとっさに駆け出した。だが五メートルも走らないうちにつかまった。四人は大地を取り押さえると、背中からバックパックを奪い取った。
「こいつの中か?」拓也が大地のパックパックを値ぶみするように見た。「でっけえバッグだな。登山でもやってんのか? こいつ」
「返して」大地は起き上がり、バックパックを取り返そうと拓也に向かっていった。だが横綱に稽古をつけてもらう下っぱの弟子みたいに、芝の上にぶざまに転がった。そこへ大介の巨漢が乗っかってきて、大地は身動きが取れなくなった。
「ゴリ、そのままコロをおさえとけ」
「おう」大介は答え、さらに体重をかけてきた。
「おい、開けようぜ」
 翼にうながされ、拓也がバックパックを開けた。終わった、と大地は絶望した。あとは漫画の登場人物が拓也たちのことだと気づかれないよう、神様に祈るだけだ。
「何だ、こりゃ?」拓也が取り出した『アイスホッケーマン』の原稿をまじまじと見つめ、ぱらぱらとページをめくった。「おい、これ漫画だぞ」
「マジ?」翼と奈良が駆けよった。「ホントだ。何これ、アイスホッケー漫画か?」
「おまえ、漫画なんて描くのかよ?」
 拓也の表情が自分を尊敬しているように見えたので、大地はちょっぴり得意げになって頷いた。だがすぐに喜んでいる場合ではないのだと思い出した。本当にヤバイ状況だった。この漫画を読まれたら、自分は殺されるかもしれないのだ。
「返して」大地は泣きながらお願いした。「大事な漫画なんだよお」
「大事な漫画だからおれらには見せられねえってか?」拓也が原稿をうちわみたいにあおりながら、いやらしい目で大地を見た。「愛する石川には見せられるのによ?」
 大地は言葉をうしなった。
「なるほどな、こいつがラブレターのかわりかよ。やるじゃん、コロくそ」
 ひゅうひゅう、と翼と奈良が冷やかした。背中に乗っかっている大介も、この色男、と大地の後頭部をはたいた。
「とりあえずこの漫画はおれらがあずかっとくからよ」
 いこうぜ、と拓也がいい、四人は河川敷をあとにした。



つづく



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第10話「新学期」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」
第9話「ひとりぼっちの夏休み」



 夏休み明けの教室はいつにも増してにぎやかだった。
 大地が教室に入ると、その教室の空気が一瞬にしてかわった。またか、と大地は冷ややかな視線を感じながらうんざりした。だがちょっとだけ一学期と雰囲気がちがった。どの顔にもとまどいがあるのだ。きっと大地の父の死を、両親か誰かから聞いて知っているのだろう。今日はどこからも「キモい」という声は聞こえてこなかった。
 拓也と目が合った。ほかのアイスホッケー部の連中も視線を投げてきた。だが何もいってこなかった。さすがのいじめっ子たちも、父親を亡くしたばかりの大地をからかうほど卑劣ではないらしい。
 大地は席につくと、さりげなく石川若菜を見た。教室の中ほどのグループの中でおしゃべりをしていた。夏休み中の旅行の話をしているのだろう。彼女もどこかにいったのだろうか、と大地は気になった。
 キリツ、と学級委員の声がし、全員が立ち上がった。木村先生が入ってきたらしい。大地は我に返り、みんなから遅れて起立した。
「みんなあ、ひさしぶりだなあ」全員が着席すると、木村先生は満面の笑みを浮かべた。日焼けで顔が真っ黒に焼けている。
「先生どこかにいったの?」奈良がからかうように訊いた。「すげえ焼けてんじゃん」
「ああ、ハワイいってきたんだ」
 先生が答えると、教室は一気にやかましくなった。すごおい。いいなあ。何日いってたのお? 誰といったのお? 彼女とお?
「おいおい、静かにしろや」先生はみんなをたしなめつつも、うれしそうに笑っていた。「みんなはどうだった? どこにいってきたんだ?」
 ほとんど全員が手を挙げ、わめくように旅行先の地名を口にした。木村先生と同じハワイの声もあったし、もっとすごい国の名を口にした者もいた。
「そうか。みんなよかったじゃんか。ちゃんと旅行記書いてきたか? 宿題だったよな」
 ハーイ、とみんな元気いっぱいに返事した。休みの間も練習があるアイスホッケー部の連中でさえ全員返事している。またどこにもいけなかったのは自分だけだと知り、胸が苦しくなった。本当なら今年の夏休みは、父と釧路川をカヌーで下り、その思い出を心に宿して登校できるはずだったのだ。
「コロ」不意に木村先生が大地を呼んだ。「もう大丈夫か?」
 騒がしかった教室が静まった。みんなの視線が自分に集中し、居心地がわるくなった。できることならほっといてほしかったと、大地はこの無神経な担任教師を恨んだ。
「気持ち、整理ついたか?」
 たったの三週間で気持ちの整理がつくわけない。どうにかこうにか正気を保っている、そんな状態だ。だからといって、まだ気持ちの整理はついてません、とも答えるわけにいかず、大地は仕方なく、はい、と返事した。
「そうか」木村先生は満足げに頷き、手をたたきながら、はあいみんなあ、といつものようにリズミカルにいった。「みんなも知ってると思うけど、七月の二十七日、コロのお父さんが亡くなりましたあ。コロはもう立ち直ったっていってるけど、まだ哀しくなっちゃうときもあると思うんだわ。だからみんなで励ましてやってさ、一日も早く元気になってもらおうや」
 誰も何も答えない。わかっているとはいえ、クラスの誰からも好かれていないと思い知らされるのは、やはりいやな気分だった。大地はぎゅっとくちびるをかみ、こみ上げる涙をこらえた。
「先生が小学五年生のときにもな、クラスにお父さんが死んじゃった子がいてな、その子お父さんっ子だったから、しばらくふさぎこんじゃったんだわ。だけど先生たちが毎日その子を遊びに誘ってやったらすっかり元気になっちゃって、一カ月もする頃には完全に立ち直っちゃったさ」
 木村先生は話し終えると、恩着せがましい目を大地に向けた。大地は目をそらした。こんな話を朝の会でするなんて、無神経にもほどがある。大地は心の底から、この軽薄な担任教師を軽蔑した。
「だからさ、みんなもコロを仲間はずれにしないで一緒に遊んでやれや。なっ?」
 また誰も反応しない。大地はこの場から逃げ出したくなった。
「あれ? 誰も遊んでやらんのか?」
 先生がとまどいながら教室中を見まわしても、まだ誰も何の返事もしなかった。もうやめてよ、と叫びたくなる。
「おい、コロは仲間はずれかあ? ん? 拓也? どうだ?」
「何でおれに振るんだよっ」拓也がキレた。「ふざけんなって。おれ、べつにコロを仲間はずれにしてねえし」
「いや、わかってるって。だからべつに先生おまえが……」
「コロがいったの?」翼が大地をにらみ、その目を木村先生に移した。「そうなんでしょ。コロがいったんだ。自分が仲間はずれにされてるって」
「そうなのかよ?」拓也がどすの利いた声を上げ、ナイフのようにとがった目で大地をにらんだ。「ああっ? そうなのかよっ、コロくそ」
 大地は拓也の方を向き、ぶるぶると首を横に振った。
「まあいいじゃないか、どっちだって。コロだってみんなの仲間に入りたいさ」
 冗談じゃない、と大地は心の中で猛抗議した。そんないい方をしたら、本当に先生に告げ口したみたいに聞こえるじゃないか!
「なっ? そうだろ、コロ」
 大地は答えず、今度こそ怒りの目を木村先生に向けた。この先生は本当に卑怯者だ。大地にはわかっていた。この先生、拓也たちの怒りを自分からぼくに移そうと、うまい技を使ったんだ!
「だからさ、仲間に入れてやれや。拓也、おまえだってお父さん亡くしてるんだからコロの気持ちが……」
「うるせえっ」拓也が机をたたいた。
「今の地雷っしょ、先生」翼が抗議した。
「あやまった方がいいって」奈良がいい、アヤマレ、アヤマレ、とシュプレヒコールが教室中でわき起こった。
「わかったわかった」木村先生は苦い顔をし、両手でシュプレヒコールを制した。「あやまるから、あやまるから」
 木村先生は拓也にあやまった。拓也が憮然としつつも謝罪を受け入れ、シュプレヒコールはやんだ。
 ふうっ、と木村先生は息をつき、しかめっ面を大地に向けた。「何だよ、おれがわる者になっちったじゃんかよお」



つづく


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第9話「ひとりぼっちの夏休み」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」
第8話「お父さんとの最後の時間」



 夏休みの毎日を、大地は布団の中ですごした。
 大地はいつも夢の中にいた。夢の中では父は生きていて、いつもどおりの生活をしていた。ミニキャブバンから食材を出して店に運んだり、厨房でジャガイモの皮をむいたり、フライパンを振っていため物をつくったりしていた。銭湯のふろ場で大地をくすぐって笑わせたり、その帰り道にくだらないおやじギャグをかまして大地をあきれさせたりもした。七面鳥のラベルのウィスキーを飲みすぎて顔を赤くして、飲みすぎよ、と母にたしなめられてもいた。父を叱りつつも母は笑顔で、大地はそんなあたりまえの光景を幸せに感じている。それでいて頭の隅では父はもうじき死ぬのだと理解していて、早く病院にいってわるい病気を治してもらってよ、とずっと心の中で願っている。早く、一刻も早く、手遅れになる前に。
 そんなどうしようもないせつなさの中で、いつも目が覚める。
 目が覚めると、父はもういないのだと思い出し、大地は放心する。その後に、哀しみとか、絶望とか、たいせつなものを奪われてしまった理不尽な人生に対する怒りとか、そんな感情がごちゃ混ぜになってこみ上げ、たまらなくなって泣きくずれる。泣くときは決まって父を呼ぶ。お父さん、お父さん、と口にしながら泣き叫ぶ。
「お父さんっ」大地は泣き叫ぶ。「お父さん、何だよお、何で死んじゃったんだよお、どうしてだよお、わけわかんないよお……」
 父の死因は胃ガンだった。スキルス性胃ガン。ガン細胞が発見されたときはもう手遅れだったのだと、後になって母が教えてくれた。
「だったらどうして本当のことを教えてくれなかったんだよお!」大地は母に抗議した。大地は本当に父が治ると信じていたのだ。だからいわれたとおりお見舞いにいかず、一生懸命漫画を描いた。父がもう治らないのだと知っていれば、漫画なんて描かないで、誰が何といおうとお見舞いにいったのだ。
「お父さんの意思よ」母はそういって大地をさとした。「本当ならね、どうせ長く生きられないんだから、入院なんかしないで家で最期を迎えてもよかったんだわ。お医者さんもそうすすめてたし。したけどお父さん、そうしなかった。何でだかわかる?」
 大地はふてくされたまま、首を横に振った。
「日に日に弱まっていく姿を、大地に見せたくなかったんだわ。あんたの心の中で、ずっと強い父親のままでいたいって、そう思ったんだわ。だからあえて入院をつづけたのよ。わかる? そのお父さんの気持ち」
 大地は答えなかった。父がどう考えようと、母がどう思おうと、自分は父に逢いたかったのだ。父といろいろな話をして、一つでも多くの思い出をつくりたかった。
 危篤の一報を聞いて病院に駆けつけたときは、父はもう死んだも同然の身体だった。そしてまもなく息を引き取った。
 動かなくなった父を見て、大地は泣きじゃくった。その後、自分がどうやって家に帰ったのかおぼえていないくらい、大地ははげしく泣きじゃくった。
 一方、母は一度として泣かなかった。病院でも泣かなかったし、葬儀屋との打ち合わせの際も、葬儀の間も、母はずっとしゃきっとしていた。通夜にも告別式にも大勢の人がきたが、母はすべての人にきちんとあいさつし、涙一つ見せずに式を取りしきった。そんな母を、親戚の人たちは立派だとほめていた。
 葬儀が終わると、母は古い友人のつてで仕事をはじめた。保険のセールスだ。福利厚生がちゃんとしているのと、ある程度は時間の融通が利くのが、その仕事のよさらしいけど、大地にはよくわからなかった。大地から見たら、ただたいへんなだけの仕事に思えた。毎朝早くに大地の朝食を用意して出かけていき、帰りはだいたい七時をすぎる。もっと遅いときもある。土曜や日曜に出かけることもあった。
 母はいつもぴりぴりしていた。父の入院中もぴりぴりしていたけど、そのとき以上にぴりぴりしている。めそめそしている大地を見ては、いいかげんにしなさい、ときんきん響く声でどなる。そのパワーはどこからくるのだろう、と大地は母を見るたび思う。父が死んだのに、どうして母は泣いたり哀しんだりしないのだろう。
 大人だからだ、と大地は答えを出した。きっと大人は哀しみを押し殺して生きられる人種なのだ。朝はちゃんと時間どおりに起き、家事をこなし、食事を取り、仕事に出かけていく。保険のセールスがどんな仕事なのか知らないけど、働いてお金をもらうのだから、たいへんに決まっている。まだはじめたばかりで慣れていないから、なおさら苦労も多いだろう。だけどちゃんとやってのけている。
 それに比べて、と大地は思う。自分は何もできない。生きる気力すらわいてこない。いっそ死んでしまえたらどんなに楽だろうとも思っている。自殺する勇気はないけど、何かの拍子に死んでしまうのならそれはそれでかまわない。トラックにひかれるとか、川に落ちておほれるとか。そうやって死ねたら、きっと楽になれるにちがいない。天国にいる父にも、逢えるかもしれない。
 その思いは日に日に強くなっていった。だけど部屋の中ですごしている以上、死ぬ機会はやってこない。死ぬとしたら、自分で行動を起こすしかなかった。
 もんもんとした日々をすごし、夏休みが終わるまであと三日になった。その日の夕方、大地は自殺を決意した。


 死のうか……。
 いつものように布団の中で放心していたとき、ふとそんな考えが頭をよぎった。一度死のうかと意識すると、死ぬ以外に自分には道がないと思えてきた。大好きな父はいないし、学校がはじまればまた拓也たちにいじめられるのだ。
 死のう。
 大地は立ち上がり、ロープをさがした。自殺といえば首つりだというイメージがあった。だが家のどこにロープがあるのかわからなかったので、べつのやり方で死ぬことにした。考えてみれば、たとえロープが見つかったとしても、首つりのやり方を知らなかった。
 包丁にしようと思い、台所に向かった。戸棚を開け、包丁を手に取った。鋭くとがる刃先を見てぶるっときた。この道具なら一瞬で自分を楽にしてくれるにちがいない。
 大地は包丁を手に父と母の寝室にいき、折りたたみのテーブルの前で座った。テーブルの上に父の位牌と遺影が置かれ、その手前にウィスキーの瓶が供えてあった。父が好きだった七面鳥のラベルのウィスキーだ。
「お父さん」父の遺影に、大地は呼びかけた。「ぼくもお父さんのところにいくよ。天国にいくよ」
 大地は包丁を握る手を強め、刃先を喉に向けた。手が震える。怖い。だけど死ねば楽になれるのだ。父に逢えるのだ。そう思い、大地は包丁を動かした。
 ダメダ……。
 不意に声がした。大地はびくっと身体を硬直させ、包丁を握ったまま周囲を見た。
 誰もいない。
 気のせいだ。大地はツバをのみ、ふたたび包丁の刃先を喉に向けた。
 駄目だ……。
 また声がした。
 帰るんだ……。
 父の声だ! 
 大地は包丁を喉から離し、周囲を見まわした。父の姿はない。あたりまえだ。父は死んだのだ。だったらどうして? もしかして幽霊?
 大地はやることがあるだろ……。
 また声がした。懐かしい声。
 漫画を描くんだろ? お父さんに見せてくれるっていってたじゃないか……。
 あの日の声だ。お見舞いにいった日にかけてくれた言葉だ。
 そうか、と大地は理解した。この声は父の幽霊の声ではなく、あのときの言葉が心の中で蘇ったのだ。
 大地ははっきりとおぼえている。あの日、またお見舞いにくるよ、といった自分に、父は、くるな、といったのだった。お見舞いにくる暇があったら漫画を描け。自分で決めたのだからがんばれ。そういったのだ。大地の長所はがんばり屋なところだともいってくれた。そばにいなくても、ずっと応援しているともいっていた。
 嘘じゃなかった。父は天国にいっても大地を応援してくれているのだ。
 大地は立ち上がり、包丁をしまった。


 大地は机に向かった。
 置きっぱなしにしていた『アイスホッケーマン』の原稿に手をかけ、ペン入れをはじめた。
 しばらく遠ざかっていた漫画描きの作業はきつかった。そうでなくてもペン入れは失敗が許されない仕上げの作業だから、一コマ描くだけでぐったりした。だけどいやではなかった。やることがある、という喜びが大地の心を満たしていた。
 大地は描いた。描いて描いて描きまくった。えんぴつとちがってペンで描くと、カリカリカリ、と音がする。その摩擦がペン軸を握る右手にしっかりと伝わり、自分は漫画を描いているのだ、と実感できた。自分は生きている。そしてこれからも生きていくのだ。頭ではなく、心でそう感じていた。
 もちろん完全に立ち直ったわけではない。漫画を描く作業に熱中していても、何かの拍子に哀しみが押しよせることはしばしばあった。そんなときはペンを置いて、机につっぷして泣きじゃくった。ときには死んでしまいたいとも思った。だけど泣くだけ泣いて少しずつ落ちついてくると、顔を上げて、また原稿用紙にペンを走らせた。描くんだ、と涙をぬぐって自分にいい聞かせた。お父さんが応援してくれてるんだ。ぼくはがんばり屋なんだ。父の言葉をお守りにして、大地は必死に漫画を描いた。
 クマみたいな大男の声も、ときおり聞こえた。「おい、さぼってねえで描け」と、あいかわらず荒々しい声で大地の尻をたたいた。まるで、早くここから出せ、とでもいっているみたいだった。早く漫画を描き終えて、この紙の中からおれを出せ、と。
 もちろんそんなはずはないのだが、大地は大男の声に忠実にしたがった。一刻も早くこの漫画を完成させ、クマみたいな大男をはじめ登場人物すべてに命を吹きこむ。それが自分の使命なのだ。
 朝起きてから夜寝るまで、食事とトイレとふろの時間をのぞいて漫画を描きつづけた。自分には漫画がある。いや、漫画しかないのだ。その思いがあるから、大地はどんなにきつくても耐えられた。
 それでもやっぱりつらい作業だった。天国の父が応援してくれているのだと心をなぐさめても、実際は父がこの原稿を読むことはないのだ。その現実は、ときおり大地の心を打ちのめした。大地はペンを置き、机につっぷし、父との思い出や、いくはずだった釧路川の旅行を頭の中に描いた。だけどどっぷりと哀しみにひたって、その哀しみがちょっとずつ薄れて、描くんだ、という気力がわいてくると、大地はまたペンを握り、哀しい現実に立ち向かって漫画を描いた。
 そうやって苦しみながら漫画を描き、夏休みの最終日の夜、『アイスホッケーマン』の原稿30ページを完成させた。



つづく



   
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第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
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第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」
第7話「お父さんの入院、お母さんのいらいら」



「いくぞ、相棒。これしきの雨に負けんなよ」
 サドルにまたがると、大地はホワイトホースにというより自分に向けて言葉をかけた。レインコートのフードをかぶり直し、ペダルを強く踏みこんで走り出した。
 雨は思ったより強かった。
 まだ五時にもなっていないのに、ねずみ色の雲と降りしきる雨のせいで、あたりは日が暮れたように薄暗かった。大地は大通りに出ると、ライトをつけた。ホワイトホースが放つ小さな光が、舞い降りる雨の粒を鋭く照らした。
 お父さん……。
 大地は息を切らして自転車を走らせながら、心の中で父に語りかけた。お父さん、大丈夫だよね。病気治るよね。旅行にだっていけるよね。待っててね。今いくから。ホワイトホースを飛ばして逢いにいくから。
 サドルから腰を浮かせ、ペダルをさらに強く踏んだ。向かい風が強くなり、レインコートのフードがめくり上がった。そこに冷たい雨がもろにかかった。
 雨をつっ切って走り、鳥取橋に差しかかった。大地はスピードをゆるめることなく橋をわたり、川向こうに出た。
 不意に右のももに鈍い痛みが走り、大地は顔をしかめた。今日の昼休みに拓也に蹴られた箇所だ。太ももだけでなく、身体中のあちこちに痛みがある。給食が終わり、木村先生が教室を出ていくと、アイスホッケー部の連中がプロレス技をしかけてきたのだ。あまりの痛さにギブアップしたが、連中はおかまいなしに技をかけつづけた。あげくの果てに、全員で大地を取り押さえ、着ている服を脱がしにかかった。大地はなすすべなく、昨日につづいて裸にされたのだった。
 どうして毎日いじめられるんだろう。明日も今日のようにいじめられるのだろうか。あさってもしあさってもいじめられるのだろうか。夏休みがすぎて二学期になっても、六年生になっても、中学生になっても、イジメはつづくのだろうか。
 つづくわよ……。
 雨音にまじって、女の人の声が聞こえた。
 イジメはいじめられる方に問題があんのよ……。
 テレビによく出るコメンテーターの声だ。本業は占い師だというそのコメンテーターが、ある番組でイジメ問題に対する意見を求められて、そういった。イジメはいじめられる側に問題があるから起きるのだ、と。だからいじめられる側が態度をあらためないかぎり、イジメは永遠につづくのだ、と。
 一人でその番組を観ていた大地は、ショックのあまり泣き出してしまった。すぐにも階段を駆け下り、仕事中の父に本当のことを訊きたいと思った。だがそれもできず、大地は自分の部屋で泣きつづけた。泣いているうちに、怒りがこみ上げてきた。今でもあの占い師のことを思うと、胸がむかむかしてくる。
「ふざけんな!」大地は大声を上げ、怒りをぶつけるように思いっきりペダルを漕いだ。雨をつっ切るホワイトホースが、ぐんぐんとスピードを上げていく。
 イジメはいじめられる側に問題があるだと? ふざけんな! イジメはいじめる方がわるいに決まってるじゃないか。なのにあのババアは、いじめられるにはいじめられるだけの理由があるといった。いじめられるような人間がいるからイジメは起こるのだといった。だからこの世からイジメはなくならないんだといいやがった。
 まわりにいたタレント連中もひどかった。誰も反論しない。ああそうですか。やっぱり先生のご意見はすばらしい。そんな感じにどいつもこいつもおべっかばかりだった。
 その番組があった翌日、大地はクラスの男子からいつも以上のイジメを受けた。何人かで大地をおさえ、残りの者が次々とボールをぶつけてきたのだ。泣き叫ぶ大地に向け、いじめっ子連中はこういった。おれたちはわるくない。わるいのはおまえだ。イジメはいじめられる方がわるいんだ。だからあやまれ。いじめられてすみませんってあやまれ!
 大地はあやまった。悔しかったが、あやまらないとその場のイジメが終わらないからだ。あやまりながら、あのコメンテーターを恨んだ。あいつのせいで、あのババアのせいで、ぼくがどんな仕打ちを受けたかわかってるのか! あのババアの権力をおそれてぺこぺこしていたまわりのタレント連中のせいで、ぼくがどんなひどい目に遭ったかわかってるのか! あの番組を放送したテレビ局の人たちのせいで、ぼくが死ぬほど苦しかったのがわかってるのか!
 怒りや悔しさをぶつけてホワイトホースを走らせた。父に逢いにいくのだ。無条件で自分の味方になってくれるただ一人の人に逢いにいくのだ。


 前方にブックオフの黄色い看板がうっすらと見えた。その裏手に父が入院している病院がある。302号室。その部屋にお父さんがいる!
 病院についた。
 駐輪場にホワイトホースをとめると、レインコートについた水滴をはらうことなく病院に駆けこんだ。階段を駆け上がり、三階をめざした。
 節電のためか、三階の廊下の明かりがいくつか消えていた。大地は息を整えるのも忘れ、薄暗い廊下を走って302号室に向かった。父の病状に対する不安と、十日ぶりに逢える喜びとで、心臓がへんな感じに飛び跳ねている。
 302号室についた。大地は大きく深呼吸をし、祈るような思いでドアを開けた。
「お父さん」
 病室に入るなり、大地は父を呼んだ。だが父のベッドはもぬけの殻だった。
「何だ?」奥のベッドから、いかにも病人らしいしわがれた声がした。
「あの、お父さんのお見舞いに……」
 大地は答えながら、声の主を目で観察した。アザラシみたいな皮膚をしたやせぎすの老人だった。
「あの、このベッド、誰もいないんですか?」
「おらん」老人は冷たいいい方をした。「この部屋にはおれ一人しかおらん」
「どこにいったんですか? ぼくのお父さん」
「ああ?」
「あの……、そこのベッドにいたんです」
「知らん」老人はなおも冷たくいった。「退院したんじゃないか?」
「してません」
「だったら……」老人は何かをいいかけ、はげしくせきこんだ。「だっ……ら……だったと……たら……」せきこみつつも何かをいおうと声を発した。
 シンダンジャナイカ……。
 そんな言葉が耳にふれた。老人がそういったのだろうか。わからない。訊いてみようにも、老人はまだせきこんでいる。
 大地は震え出した。老人がいったのか気のせいなのか、どちらにしろ、大地の心は不安でいっぱいになった。
 大地は逃げ出すように病室を飛び出し、薄暗い廊下を闇雲に走った。走りながら、お父さん、お父さん、と声を上げた。声に出ているかどうかはわからないが、大地はすがる思いで父を呼びつづけた。
 不意に大地は足をすべらせ、前のめりに転んだ。床に膝をぶつけ、鈍い痛みが走った。大地は廊下につっぷしたまま泣き出した。しゃくり上げながらも、お父さん、お父さん、と呼びつづけた。
 遠くでスリッパを引きずる音が聞こえた。その足音は、どこか懐かしいリズムを持っていた。大地はしゃくり上げながら、上体を起こして足音のする方を見た。
「大地か?」父の声が、薄暗い廊下にぽつりと響いた。
「お父さん?」父の声だとわかりつつも、大地はたしかめるのが怖かった。幻だったらどうしようという恐怖が胸にある。
「どうした? 大地。そんなところに座って」
 歩みよる人影はまぎれもなく父だった。生きている。お父さんは生きているんだ!
「お父さん!」大地は起き上がり、父の胸へと駆け出した。黄色いカエルのセーターに顔をうずめると、この世で一番好きな匂いでいっぱいになった。
「どうした? 泣いてるのか?」
「だってお父さん病室にいないんだもん」
「移ったんだよ。個室にな。ほら、もう泣くな。部屋にいこう。こっちだ」
 大地は父の胸から離れ、後をついていった。父はときおり大地を振り返り、目が合うと笑った。その笑い顔は、どこか弱々しかった。やっぱり病気が重いのだろうかと、大地は不安でいっぱいになった。
 新しい病室は廊下の角をまがって一番奥にあった。白い壁が囲むその部屋は、四畳半の大地の部屋と同じくらいの広さで、その半分近くをパイプベッドが占めていた。
 父はベッドのへりに腰を下ろすと、まるいいすに座るよう大地をうながした。
「レインコート脱げ。風邪ひくぞ」
 大地はレインコートをハンガーにかけると、いすに座った。
「ちょうどさっきお母さんが帰ったところだ」
「そう」
 母と鉢合わせにならずにすみ、大地はほっとした。家に帰ったら、どこにいっていたのか問いつめられるだろうが、友達のところにいっていたと嘘をつけばいい。あるいは父のお見舞いにいっていたと正直にぶちまけるか。怒られるかもしれないけど、かまうものか。
「自転車できたのか?」
「うん」
「けっこうあるだろ? 病院まで」
「三十分くらい」
「寒かったろ」
「平気」
 話したいことは山ほどあるのに、なぜだかうまく話せなかった。ここが病室だからだろうか。それとも父の顔が、以前とちがって見えるからだろうか。
「どうした? 元気ないじゃないか?」
「ううん。元気だよ」答えながら大地は父の顔を観察した。やっぱりちがう。そんなふうにいうのはいやだけど、何だかガイコツみたいだ。それに笑い方がへんだ。わざとらしいし、何となく哀しい笑い方だ。
 病気が重いんだ、と大地は確信した。
 ちゃんと訊かなきゃ。大地は父の顔をちらちらと見ながら思った。本当の病名を訊きに雨の中ここまできたんじゃないか。だけど怖くて訊けなかった。何度も口を開きかけたが、どうしても言葉が出てこない。
「学校はどうだ?」父が沈黙をやぶった。「楽しくやってるのか?」
「えっ? あ、うん」
「つらいことはないのか? あるんなら、何でもお父さんにいえよ。うん?」
 父がこんなことを訊いてくるのははじめてだった。父のやさしい声を聴き、大地はたまらなくなった。もうすべてを打ち明けてしまおうか、と思った。自分が学校でいじめられていると、正直にいってしまおうか。いえば楽になるのだろうか。お父さんが、ぼくを助けてくれるのだろうか。
「うん? どうした? やっぱり何かあるんだろ? 全部、話してみろ。うん? お父さん、いつだって大地の味方だぞ」
「ないよ」大地は必死の思いで涙をのみこみ、首を横に振った。やっぱり、自分がいじめられていると父に知られたくなかった。
「そうか。ホントか?」
「うん」大地は父から目をそらし、蛍光灯にあたってははじき飛ばされるハエを目で追って、嘘をついている表情になるのを防いだ。「何もないよ。だって友達だってたくさんいるし。ぼく、けっこう人気者だよ」
「そうか。それならいいんだ」
 薄く笑う父をちらりと見て、大地は自分の嘘がばれているんじゃないかと不安になった。もっと嘘を重ねて、話を本当っぽくした方がいいのだろうか。
「学校の友達はみんなアイスホッケーの練習があるからさ、放課後は遊べないけど、昼休みとかは遊んでるよ」
「アイスホッケーの練習って毎日あるのか?」
「日の出小は全国大会の優勝狙うチームだから。監督も厳しいし」
「そうか。すごいな。全国優勝か」
 父が感心していうと、大地の胸は重苦しく痛んだ。やっぱり父は、自分の子供にアイスホッケーをやってもらいたかったのだ。大地の胸には、その不安がずっとあった。父の本当の気持ち。部屋で漫画を描いているような子どもじゃなく、本当は、男らしくスポーツをやっている子どもが好きなんじゃないのか。
 大地は哀しくなった。自分はアイスホッケーをやるどころか、その部員たちにいじめられているのだ。
「あのさ……」大地は思わず口を開いた。「ぼく、アイスホッケーはちょっと苦手なんだけど、でも身体動かすの好きだよ。昼休みにもさ、校庭で遊ぶし」
「そうか」
 父の声が明るくはずみ、大地の胸はさらに痛んだ。やっぱりお父さんは、活発な子どもが好きなんだ……。
「何して遊ぶんだ?」
「最近は……、フットベースかな」
「フットベースか!」父の声はさらにはずんだ。「お父さんもやったぞ、フットベース。そうか、今の小学生もやるのか。そうかそうか。あれは燃えるんだよなあ」
「うん。燃える」
「そうか。大地も燃えるか?」
 今度は口に出さずに首を縦に振った。これ以上父に嘘をつくのはつらかった。だけど父のうれしそうな顔を見ていると、嘘をつく方が親孝行のような気がしてくる。
「フットベースってさ、普通の野球より三振が少ないから、大量得点になりやすいだろ。だから日によっちゃ一回の表だけで休み時間が終わっちゃうんだよな。打者一巡の猛攻ってやつでさ。なっ?」
「う、うん」反射的に答えた。わからないけど、たぶん、そうなのだろう。
「今日もフットベースか?」
「今日は教室で遊んだ。雨だから」
「そうか。雨だったな」父は病室の窓をちらりと見やった。「教室で何したんだ?」
「ううんとね……、ゲーム」本当はプロレスだ。大地は今日受けたイジメを思い出し、暗い気分になった。
「どんなゲームだ」
「えっ? うん、いろいろ」
「そうか」父は立ち上がり、窓へと歩いた。カーテンを開け、外を見た。「雨、まだ降ってるな」
 明日もまた雨だろうか。雨ならまたいじめられる。大地は父の背中を見つめながら、さっきの父の質問を思い出した。もう学校にいきたくない。思いきって、そういってしまおうか。自分が今学校でどんな目に遭っているのか、すべてぶちまけてしまおうか。そうすれば楽になるかもしれない。だけどやめた。自分がいじめられていると知られるのは、やっぱりいやだった。父は活発な子どもが好きなのだ。自分の本当の姿を知ったら、哀しむに決まっている。
 父がカーテンを閉め、ベッドに戻ってきた。
「あのな、大地」
 父が深刻な顔を向けてきたので、大地は緊張した。病気の話をするんだと直感的にさとった。そうだ。自分はそれを知るために病院にきたのだ。
「お父さんの病気な、治るまでもうちょっとかかりそうなんだ。ちょっとやっかいでな」
「そうなの……?」大地はうつむき、震える声で答えた。「おっきい病気なの?」
「まあ、ちょっとな」
「治る?」大地はうつむいたまま、訊いた。父の顔を見るのが怖い。
「ああ」父は答えた。一瞬、答えが遅れたような気がした。
「ホント?」大地はもう一度訊き、ゆっくりと顔を上げて父の顔を見た。
「ああ」父は頷き、静かに微笑んだ。「大丈夫だって。治るさ。きっとな」
「旅行は? 旅行はどうなるの?」
「いくさ」父は即座に答え、また小さく笑った。「ちゃんといくから。ただ夏休みはすぎちゃうかもしれないけどな。そんときは学校休んでいこう。なっ?」
「いいの?」
「ああ。学校の授業よりたいせつなことをお父さんが教えてやる」
 ガイコツみたいに見えていた父の顔が、普段どおりの顔に復活したみたいだった。気のせいだったのかもしれない、と大地は思った。病室の真っ白い蛍光灯のせいで、父の顔が青白くやつれて見えたのかもしれない。
 父は立ち上がり、また窓際へと歩いた。
「おっ、雨上がったな。大地、そろそろ帰れ」
「ええっ、やだよ。もうちょっといていいでしょ?」
「駄目だ。帰るんだ。もうこんな時間じゃないか」
 父の視線を追って、大地は壁の時計を見た。いつのまにか六時半になっていた。たしかにそろそろ帰らないと、家につくのが遅くなる。
「帰るよ」大地はしぶしぶ立ち上がった。「明日またくるよ」
「駄目だ」
「えっ、どうして?」
「大地はやることがあるだろ」
「やることって?」
「漫画を描くんだろ? お父さんに見せてくれるっていってたじゃないか」
「漫画なんていつだって描けるよ。それよりお父さんのお見舞いの方が大事だよ」
「いつだって描けるなんていうんじゃないっ」父がいつになく激した口調でいった。「時間はな、かぎられてるんだぞ。さぼらずに全力でやらないと駄目だ」
 大地はしゅんとした。普段はやさしい父が怒ると、心を引っぱたかれたみたいにへこむ。
「自分で決めたんだろ? 漫画を描くって」
「うん。だけど……」
「だったらがんばれよ。お父さんな、大地ががんばって何かをやるのが、たまらなくうれしいんだ」
 父の顔からきつさが消え、大地はほっとした。
「いいか。大地の長所はがんばり屋なところだ。お父さん、いつも感心してるんだぞ。洗い場のアルバイトだってがんばってやってるし、漫画だってがんばって描いてる。それはな、誰にだってできることじゃないんだ。がんばり屋ってのは、一番の武器になるんだぞ。だからこれからもがんばれ。お父さん、大地のそばにいなくても応援してるから。ずっとずっと応援してるから。いいか。それを忘れるなよ」
 胸が熱くなった。いや、胸だけじゃなく、全身が熱くなった。今まで生きていた中で一番うれしい瞬間だった。父が自分をそんなふうに認めてくれていたなんて、大地はこれっぽっちも知らなかった。うれしくてうれしくて、つい涙がにじんだ。
「いいな、大地」
「うん」
 大地はがんばろうと思った。がんばって一日も早く『アイスホッケーマン』を完成させて、その原稿を父に見せるのだ。そのときまだ入院していたら、その原稿を持ってお見舞いにこよう。がんばった結果を持ってくるなら、お見舞いにくることを許してくれるだろう。
「それからな、お母さんのいうことをちゃんと聞くんだぞ。お母さんが疲れてるときは、大地がしっかりするんだ。できるな」
「うん」
「よし、わかったらもう帰れ」
「うん、帰る」
 父は微笑み、レインコートを大地に手わたした。「一応、きていけ。途中で雨になるかもしれないから」
「ありがとう」
 大地は病院をあとにし、ホワイトホースにまたがった。


 その日の夜から、大地は『アイスホッケーマン』の下書きを再開した。学校から帰っては机に向かって描き、ふろに入ってご飯を食べたら、観たいテレビも観ずに寝る時間まで描きつづけた。一日も早くこの原稿を父に見せる。その思いが、大地をつき動かしていた。
 ときどき本当に疲れて一日くらい休もうと思うときもあった。そんなときは決まってクマみたいな大男の声が聞こえるのだった。「おい、ガキ、さぼってねえで描け」と荒々しい声が聞こえると、やっぱり描こうと気合いが入った。きっとクマみたいな大男が父の気持ちを代弁しているのだ。大地はそう思って描いた。そして描きながら、父もこのクマみたいな大男というキャラクターを好きになってくれるかな、と考えた。大地はこのクマみたいな大男を、主人公のダイチ以上に気に入っていた。だから父も気に入ってくれたらいいと思い、漫画を描ける幸せをかみしめた。
『アイスホッケーマン』の下書きが完成したのは夏休みに入って四日後だった。大地はその日、十一歳になった。
 そして、その日の夕方、ブックオフの裏手の古い病院で、父は静かにこの世を去った。


つづく

第7話「お父さんの入院 お母さんのいらいら」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」
第6話「お父さんが倒れた!」


 雨がつづいた。
 夏らしくない冷たい雨だった。釧路の夏が暑くならないのは毎年のことだけど、ここまで寒い夏は珍しかった。町は灰色にかすみ、晴れた日にはくっきりと見える日本製紙の工場のエントツが、雨の向こうに隠れている。そんな日がもう何日もつづいていた。
 学校帰りの道を歩きながら、大地は恨めしげに水たまりを蹴散らした。
 大地は雨が嫌いだった。雨の日は、休み時間になってもクラスの男子がずっと教室にいるからだ。そしてやつらは校庭で遊べないうさを晴らすかのように、大地をいじめる。
 今日もいじめられた。クラスの全員が見てる前で裸にさせられたのだ。裸になんかなりたくなかったけど、拓也にすごまれたらさからえない。大地は拓也たちに殴られる前に、自分から服を脱いだ。ヒューヒュー、と男子のギャラリーがはやしたて、女子はみんな、キモー、と悲鳴を上げた。まわりを見る余裕なんてなかったけど、きっと石川若菜も見ていただろう。
 さらにひどかったのは、その後だった。休み時間が終わって木村先生が入ってきたときだ。何やってるんだ、と声を上げる先生に、女子の誰かが、コロが裸になるんです、いけないと思います、といったのだ。
「どうして裸になったんだ!」先生は大地をどなりつけた。「ああっ? お笑い芸人にでもなったつもりか?」
「ちがいます……」
「だったらどうして裸になった?」
「だって……」拓也が脱げっていうから、とはいえず、大地はうつむいて黙りこくった。悔しくて、大粒の涙がこぼれた。ぼくは被害者なのに、どうして先生にまで怒られなくちゃならないんだ……。
「ちくしょう!」
 大地はまた水たまりを蹴った。撥ね上がった水で自分の身体も汚れたが、大地はかまわず蹴りつづけた。そんなことをしても気持ちは晴れず、むしろ悔しさがこみ上げるだけだった。それでも大地は蹴った。ちくしょう、ちくしょう、と泣きながら、水たまりを蹴りつづけた。
 日の出商店街につくと、ジャンパーの袖で涙をぬぐい、けろっとした表情を顔に貼りつけた。近所の人に泣いているところを見られたくない。
 もっともこの雨で、商店街の店主はみな店の奥に引っこみっぱなしだ。もともと活気がない商店街が廃墟のようだった。
 ただ一軒の繁盛店であるナカヤマ食堂は、もう何日も店を開けていない。「都合によりしばらく休みます」の貼り紙が、雨風にさらされてやぶれかかっている。大地はその貼り紙を見るともなしに見て、とぼとぼと外階段を上がった。
 ドアに鍵がかかっている。今日も母は父のお見舞いにいっているのだ。大地はため息をつき、すっかり慣れてしまった手つきで鍵を開けた。家の中は、外の雨以上に冷え冷えとしていた。電気をつけても、誰もいない家は明るく感じない。
 父が病院に運ばれてから今日で十日になる。
 どうしたのだろう。大地は不安で胸が苦しかった。病気がわるくなったのだろうか。それとも検査が長引いているだけなのか。母に訊いても、わからないの一点張りだ。
 今日こそ退院してくるはずだ。大地はむりやりそう思いこみ、『アイスホッケーマン』を描きはじめた。ちょっとあせっている。ここ一週間、ちっとも描けていないのだ。こんな調子じゃ父との旅行の日までに完成できない。
「描くぞ」大地は気合を入れてえんぴつを握った。だけどやっぱり父のことが頭にちらつき、集中できなかった。


 五時すぎに家のドアが開く音がした。大地は一コマも描けなかった原稿を放り出して、玄関へと走った。
 帰ってきたのは母だけだった。
「お父さんは?」
「病院よ」母は靴を脱ぎながらいった。大地と目を合わせようとしない。
「今日も退院できないの?」
 母は答えず、大地のわきをかすめて台所に向かった。
「ねえ、どうして?」
「したからもうちょっとかかるって、昨日もいったっしょ」母は買い物袋から肉や野菜を取り出しながら、言葉だけを大地に返した。
「もうちょっとって、もう入院して十日だよ。どこもわるくないんだから、もう退院したっていいじゃん」
「お母さんにそんなこといってもわかんないわよ!」母はいらいらと答えた。最近の母はいつもいら立っている。
「ねえ、どうしてわかんないの?」これ以上訊いても無駄だとわかりつつ、大地は母の背中に質問をぶつけた。「ねえ、どうして? 答えてよ」
「ちょっともう、いいかげんにしてよ。わかんないっていったらわかんないの!」
 わからないなんておかしい。毎日病院にいっているのだから、当然、医者とも話しているはずだ。
「ねえ、明日はぼくも病院にいくよ。いいでしょ?」
「駄目よ」母はこちらを振り返らずにいった。「あんた学校っしょ」
「終わってからいく」
「駄目」
「どうしてさ?」
「お父さんがいったのよ。見舞いにはこさせるな、って。そんな暇があったら勉強させろって」
「嘘だよ。お父さん、僕に勉強しろなんていわないよ。ねえ、いいでしょ。病院つれてってよ」
「駄目っていってるっしょ!」母はついにどなり、こちらを振り返った。「それより本当に勉強しなさいよっ。この前の算数のテスト、あんた何点だった?」
 12点だ。だけどそれは父の入院が長引いていて気持ちが不安定だったからで、普通ならもっといい点が取れたはずなのだ。
「あんな点取って恥ずかしくないの? 漫画ばっかり読んでるから馬鹿になっちゃったんでしょ」
 馬鹿といわれ、大地はしゅんとした。たしかに12点は低い点だけど、だからといって馬鹿はひどい。いわれたこともショックだが、それ以上に馬鹿などと口にする母が哀しかった。以前の母なら、馬鹿なんて絶対にいわなかったはずだ。
「いい? ちゃんと勉強しなさいよ。わかった?」
「わかった」大地はしぶしぶ答え、部屋に戻った。


 翌日も雨だった。
 大地は学校から帰ると、机の引き出しから『アイスホッケーマン』の原稿を出した。今日こそは描くぞ、と学校にいるときから強く心に誓っていた。
 だけどやっぱり描けなかった。
 おやつでも食べて気分をよくしようと、台所に向かった。だがおやつの置き場である冷蔵庫のわきのカゴは空っぽだった。母がおやつを買い忘れているのだ。
「もう、何やってるんだよ、お母さん」大地はむしゃくしゃしながら部屋に戻った。「最近のお母さん、どうかしちゃってるよ」
 昨日のいい争いを思い出し、心が痛んだ。以前の母はあんなにヒステリックじゃなかった。ときどきは怒るけど、テストの点がわるかったくらいであんな怒り方はしない。
 やっぱりお父さんの病気がよくないんだ。それであんなふうにいらいらしてるんだ……。
 大地は父の病気の正体を知りたかった。死んでしまうような病気だったら、と思うと怖くなるけど、やっぱり本当の病名が知りたい。とにかく何もわからない今の状態はいやだ。
 だけど母は今日も何も教えてくれないだろう。
 いっそ一人で病院にいこうか……。
 病院はいつもいくブックオフの裏手だ。ホワイトホースを飛ばせば、三十分ほどでつく。
 問題は雨だ。
 大地は窓のカーテンを開け、外を見た。あいかわらず灰色の雨が、通りを濡らしている。
 大地はあきらめ、ふたたび『アイスホッケーマン』の原稿に向かった。だけど描けない。頭の中が父のことでいっぱいだ。怖い。ものすごく。死ぬような病気にかかっているんじゃないかと、どうしてもわるいふうに考えてしまう。
 大地は立ち上がり、もう一度カーテンを開けた。
 雨はあいかわらずだ。だがどしゃぶりではない。屋根や軒にあたる雨音は部屋にまで聞こえてくるが、雨粒はそれほど大きくはない。この程度の雨なら、いけるのではないか。 大地は時計を見た。五時。そろそろ母が帰ってくる時間だ。今からいけば、ちょうどうまい具合にいきちがいになる。
「よし」大地は決断した。レインコートを着こむと、長靴をはいて外階段を駆け降りた。


つづく

第6話「お父さんが倒れた!」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」
第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」



 事件はその翌日に起こった。
 六時間目の国語の授業中、突然、教室の前側の戸ががらりと開き、そこから教頭先生が顔を出した。
「木村先生ちょっと」
 担任の木村先生が廊下に消えると、教室はいっせいにざわついた。全校集会のときくらいにしか見る機会のない教頭先生がやってきたのだ。何が起きたのかと興味がわくのは当然だった。もちろん大地も気になった。何が起こったのだろう?
「コロ!」木村先生が入り口から顔を出し、大地を手招きした。「先生と一緒にこい!」
 大地は胸騒ぎをおぼえながら立ち上がり、廊下に出た。教室のざわめきが強まるのを、背中で感じた。
「ど、どうしたんですか?」
 木村先生はものすごい形相で大地を見ると、左の肩を強くつかんできた。「今から先生と一緒に病院にいくんだ」
 ビョーイン……?
「お父さんが倒れたそうだ」
 タオレタ……?
 目の前の風景も頭の中も、みんな真っ白になった。二人の大人が何をいっているのか、理解できない。
「坂巻さんという人から電話が入ったんだよ」教頭先生がいった。「きみのお父さんが倒れてたので、救急車で病院に搬送した、って」
 寒けがした。全身が震え出し、胸やおなかがぐしゃぐしゃで気持ちわるくなった。吐きそうだ。
「お父さんが……」
「そうだ。早くいくんだ」
 どうして? 昨日はあんなに元気だったのに。ぼくの漫画を一番に読んでくれるって約束したのに。あんなにうれしそうに笑っていたのに……。
「大丈夫なんですか?」大地は教頭先生につめよった。「お父さん、助かりますよね!」
「わからない……」
 ワカラナイ……。教頭先生の言葉が、耳に冷たく響き、いつまでも残った。
「コロ!」
 木村先生にどなられ、大地は自分の立場を思い出した。そうだ。とにかく病院にいかなくちゃ。お父さんのところにいかなくちゃ!
 木村先生の車で病院に向かった。
 担任の先生の車に乗っている特殊な状況が、不安を大きくした。身体が震え、上下の歯ががちがちとぶつかり合った。
 助手席で背中をまるくしながら、大地は目を閉じて神様に祈った。お父さんを助けてください。お願いですから、お父さんを助けてください……。
「大丈夫だってコロ。心配するな」
 木村先生ののんきな声が耳に流れこんだ。どうしてそんなことがいえるのだろうと、大地はこの場でなじりたくなった。坂巻と電話で話した教頭先生でさえ、大丈夫かどうかわからないといっていたのだ。事情を伝え聞いただけの木村先生にわかるはずがない。
 ふと窓の外に意識を向けると、車は鳥取橋をわたっていた。その下を流れる釧路川を見て、大地ははっとした。そうだ。旅行は? 釧路川のカヌー旅行はどうなるんだろう?
 お父さん……。
 大地はまた目をきつく閉じ、今度は神様にではなく、直接父に向けて語りかけた。お父さん、死なないで。お願いだから、死なないで。
 二十分ほどで病院についた。大地がよくいくブックオフの裏手にある、三階建ての古い総合病院だ。
 車を降りると、大地は木村先生の存在も忘れて、一人で病院の中へと走った。息を切らして、受付に駆けこんだ。「お父さんは? お父さんは無事ですか?」
「ええと、お名前は?」
「あ、中山です。中山慶彦。あの、今日の朝、救急車で運ばれたって……」
「ああ」受付の女の人は納得したように頷き、何やら書類を見た。「中山さんなら302号室ですね」
「302って、三階ですか?」
「そうよ。あそこが階段。走っちゃ駄目よ」
 受付の女性の声を無視して、大地は階段を駆け上がった。302号室。そこに父がいる。つまり、父は死んではいないといことだ。
 三階につくと、大地は走るのをやめ、病室の番号をたしかめながら廊下を歩いた。あった、と小さく声を上げ、302号室のドアを開けた。
「お父さんっ!」
 母と坂巻夫婦、そして父、四つの顔がいっせいに大地を見た。
 父はベッドの上で上半身を起こしていた。笑顔だ。ちょっとだけ顔色がわるくも見えるが、重い病気には見えない。
「お父さんっ」病室にはほかに三人の患者がいたが、大地はかまわず大声で呼んだ。「大丈夫なの?」
「大丈夫さ」父は、馬鹿だなあ、というふうに笑っている。
「ホント? ホントに大丈夫?」父の言葉だけでは心配なので、大地は母にも言葉を投げた。
「大丈夫よ」
「だけど入院するんでしょ?」
「念のため。すぐに退院できるわよ」
「なあんだあ、よかったあ」全身の力がへなへなと抜け、大地は父のベッドにばたりと倒れこんだ。あらあら、と坂巻夫人の笑う声が耳に流れこんだ。
 ノックの音がして、ドアが開いた。どうも、と会釈しながら木村先生が入ってきた。
「木村先生。お忙しいのにすみません」母が腰を浮かせてあいさつした。父と坂巻夫妻もつづけて会釈した。
「大丈夫なんですか?」
「ええ。たいしたことないんですよ」
「だけど倒れたって」
「ちょっと腹が痛くなっただけなんですよ」父が頭をかいた。「それをこの人がおおげさに騒ぎ立てちゃいましてね」
「何いってんだ、中ちゃん」父に指さされた坂巻が声をとがらせた。「相当痛がってたべや。ただごとでねえって思ったもなあ、こっちは」
「どこで倒れてたの?」大地が訊いた。
「厨房だわ。二時すぎ頃、おじさんが店に入ってったら倒れてたんだわ」
「倒れてただなんて、ちょっと腹おさえてただけでしょう。たいしたことないですって。あんなのしょっちゅうなんですから」
 父の言葉に、木村先生をのぞく全員がぎくりとした。大地も驚いて父を見た。しょっちゅうおなかが痛くなるなんて知らなかった。
「しょっちゅうあるの? お父さん」母が深刻な顔を父に向けた。
「いや、言葉のあやだって。つまりそれほどたいしたことないっていう意味さ」
「ホントにかい?」坂巻がなおも心配そうにいい、親指を隣の夫人に向けた。「何だか最近やせたんでないかって、こいつともしゃべってたんだわ」
「そうかなあ。かわんないと思うけど……」
「やせたわよ」坂巻夫人がいった。「だいたい中山さんは働きすぎなのよ。いい機会だからゆっくり休んで、いろいろと診てもらった方がいいわ」
「そうだよ」大地も口出しした。「ぼく、お父さんが病気になるのいやだもん。今日だってホントにびっくりしたんだから」
「ほれ、大地もいってるべ。したから中ちゃん、店のことは気にしないでしっかりと身体治せや」
「そうよ、お父さん」母もつづいた。「月末には大地と旅行っしょ」
「そうだよ、お父さん。旅行の日までに治してよ」
「おいおい、みんなでそうプレッシャーかけるなよ」


 一足先に木村先生が学校に戻った。大地は病院に残った。今日はもう学校にこなくていいというので、一時間ばかり父や母、坂巻らとぺちゃくちゃとやった。
 夕方、大地は母を残し、坂巻夫妻とともに病院をあとにした。
「したけどよかったな。お父さん、何ともなさそうで」ハンドルを切りながら、坂巻が後部座席の大地に声を投げた。「まだ精密検査やるみてえだけど、あれだけ元気なら大丈夫だべ」
「うん。ホントによかった。おじさんの早とちりで」
「はんかくせえこというんでねえ。ホントに痛がってたんだぞ、お父さん。なまら苦しそうでな、ホントに死んじゃうんでねえかって思ったわ」
「嘘だあ」大地はけらけらといった。「おじさん、いつもおおげさなんだもん」
「嘘じゃないわよ」助手席の夫人が後部座席を振り返った。「お父さん、脂汗かいてね、救急車に乗せられるときも、うんうんうなって」
「そうなの?」
「まあいいべ。無事だったんだ」坂巻がいった。「疲れが出てたんたべや。お父さん、ずっと休みなしで働いてたからな。これを機に身体オーバーホールすればいいわ」
「オーバーホールって?」
「たまった疲れをいやすことだ。ちょうどいいんでないかい。月末は旅行だべ?」
「うん」
「楽しみだべ?」
「うん」大地は答え、喜びで全身がぶるっと震えるのを感じた。「すごく楽しみ。だってはじめてなんだよ、ぼく。旅行するの」
「そうだよなあ」坂巻は何かをかみしめるようにいった。「おめえのお父さんも、ずっと楽しみにしてたもなあ」
「ホント?」
「何せ、今度の旅行はおめえがまだちっこいときから決まってたんだからな」
「嘘だあ。またぼくをからかって」
「ホントだわ。お父さん、その日がくるのを、ずっとずっと楽しみにしてたのさ。おめえが十一歳になるのをな」
「どういうこと?」
「昔、おめえのお父さんにな、日曜くらい食堂休みにして、大地と遊んでやったらどうだ、っていったことがあったんだ。そしたらお父さん、こういったわ。たしかに今は寂しい思いをさせてるかもしれないけど、大地が十一歳になる誕生日には旅行につれてくつもりだから、ってな。釧路川を二人乗りのカヌーで下るんだ、って。それが大地の元服なんだ、って。男の子が生まれたらそうするって昔から決めてたそうだわ。したから、おめえのお父さんは、ずっとその日がくるのを楽しみにして、毎日毎日休まずに働いてたんだぞ」
「ホント? ホントの話?」
「ああホントだ。よかったなあ。おめえお父さんにそんなにも愛されて」
「うん」大地はちょっぴり照れながら答えた。だけど本当にうれしい。お父さん、本当にぼくのこと考えてくれてるんだ!
「したから今度はおめえが答えてやんねばなんねえな。この旅行でな、おめえは一皮も二皮もむけなきゃなんねえんだぞ」
「できるかな?」
「大丈夫だって。釧路川をキャンプしながらカヌーで下んだ。いやでも一皮むけるって」
「ホント?」
「ああ。だから思いっきり楽しんでこい。十一年間どこにもいけなかった分、思いっきりな」
「うん。だけどまだ一カ月も先だよ」
「なあに、あっというまさ。すぐに旅行の日がくるわ」
 そうだといいな、と大地は思った。本当にすぐにもお父さんと旅行にいきたい!


 家に戻ると、大地はすぐさま机に向かい、アイスホッケーマンのネームを引き出しから出した。このネームをもとに、いよいよ本物の原稿用紙への下書きをはじめるのだ。
 ネームのときは登場人物の絵とフキダシの台詞だけだったが、今度は背景や擬音なども描かなくてはならない。はじめはえんぴつで下書きするとはいえ、すべてが本番だと思うと緊張してくる。だけどやらなくちゃ、と大地は気合を入れた。あと一カ月で30ページを書き上げ、その原稿を旅行に持っていくのだ。
 取りかかる前に、大地は最後にもう一度ネームに目をとおした。
 うんいいぞ、と大地はページをめくりながら思った。我ながらうまく描けている。さらにていねいに描けば、本当に少年ドリームジュニア漫画新人賞を取れるかもしれない。
 中でも一番気に入っているシーンは、主人公の少年「ダイチ」が「クマみたいな大男」と出逢うシーンだ。スケートの特訓をはじめて四日目に、スケート場で出逢うのだ。
「クマみたいな大男」とはダイチにスケートを教えるコーチで、『アイスホッケーマン』の重要な登場人物だ。身長二メートル。体重百二十キロ。髪はぼさぼさ、髭はぼうぼう、着ている服は上下ともまっ黒のジャージ。顔つき、身体つき、風貌のどこを取ってもまさにクマという、そんなキャラクターだ。
 この大男は将来を期待されたアイスホッケーの選手だった。ところがある試合で八百長の疑惑をかけられ、チームをクビになる。アイスホッケーへの思いが断ち切れない大男は、単身アメリカにわたり、NHLのシカゴ・ブラックホークスに入団する。しかし、一試合の出場もないまま事故に遭い、選手生命を絶たれてしまう。今は釧路のアイススケート場でザンボの運転手をしながらひっそりと暮らしている。そんな設定だ。ちなみにザンボとはザンボーニの略称で、リンクの氷をならす製氷車の呼び名だ。
 大地がこのクマみたいな大男を気に入っているのは、自分で生み出したキャラクターだからだ。他の登場人物はすべてクラスのアイスホッケー部の連中などをモデルにしているが、このクマみたいな大男だけはちがう。あるとき、ぱっと頭に浮かんだのだ。それ以来、クマそっくりのこの大男が、漫画ではなく、生身の人間の形をして大地の頭の中でちゃんと生きている。
「早く描けよ、ガキ」
 荒っぽい声が聞こえた。大男の声だ。もちろん本当に大男が話しかけているわけではないのだろうけど、ときどき大地の耳にその声が聞こえてくる。大男は大地をガキと呼ぶ。漫画の中でも、このクマみたいな大男は主人公のダイチをガキと呼んでいる。
「おい、ガキ」また聞こえた。「さぼってねえで、早く描け」
 はい、と大地はいたずらっぽく答え、描きはじめた。


つづく

第5話「お父さんに捧げる、ぼくの漫画!」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」
第4話「旅行にいくぞ!」



 学校から帰るとおやつも食べずに机に向かうのが、大地の日課になった。『アイスホッケーマン』を描くためだ。
 ストーリーは決まっているとはいえ、実際に描くとなるとその作業はやはりむずかしく、しばしばえんぴつをとめて何十分も考える羽目になった。だけど迷いから抜け出してふたたび右手が動き出したときは、まるで登場人物が勝手に動くかのようにすらすらと描けた。「右手に神が降りた」とプロの漫画家がよく表現するらしいけど、大地は小学五年生にしてその感覚を何度も味わった。
 今やっている落書き帳への下書きは、漫画の言葉で「ネーム」というらしい。漫画家はまずネームを完成させ、それをもとに今度は原稿用紙への下書きをはじめるのだ。最後にその下書きにペン入れをし、下書きのえんぴつのあとを消しゴムで消して完成となる。
 大地は生まれてはじめて描くこの漫画を、父に一番に読んでもらおうと決めていた。まずは六月中にネームを終えて、旅行の出発日である誕生日の前日までの約一カ月で、原稿用紙に下書きする。その下書きのコピーを、夏休みの旅行に持っていくのだ。
 キャンプの夜に、『アイスホッケーマン』の原稿を父に手わたす。父がその原稿を読み、自分はどきどきしながら父の感想を待つ。その場面を想像すると、漫画を描く威力が爆発的にわいてくる。
 旅行から帰ったら、残りの夏休みを使ってペン入れをし、完成した原稿を『少年ドリームジュニア漫画新人賞』に応募するつもりでいる。この賞は中学生以下の漫画少年を対象にした新人賞で、漫画家をめざすちびっ子の登竜門として名高い賞だ。『バスケットマン』のイマイケンジも、今の大地と同じ五年生のときこの賞を取ったらしい。自分もぜがひでも取りたいと大地は思う。なれるかどうかわからないけど、将来はプロの漫画家になりたいと思っている。
 週に一、二回の洗い場のアルバイトをこなしながら、毎晩遅くまで『アイスホッケーマン』を描いた。努力のかいあって、六月の終わりにはネームが終わった。全30ページの大作の骨組みが完成したのだ。


「あと一カ月だね」閉店後の店で食器を洗いながら、大地は父に話を振った。
 ああ、と父は答えた。声とともに、金タワシを調理台にすべらせる音が、大地の背中に聞こえてくる。
「準備はできてるの?」
「ぼちぼちな」
「カヌーはもう買った?」
「まだだ」
「大丈夫? 早く買わないと売り切れちゃう」
「大丈夫だって。大地は心配性だな」
 父が微笑む気配を背中に感じ、大地は自分が世界一の幸せ者だと思った。今日もいつものように学校でいじめられたけど、そんな不幸も父といると消えてしまう。
「ねえ、カヌー買うとき、ぼくもいくよ」
「駄目だ」
「どうして?」
「平日にいくからな。大地は学校だろ」
 ちぇっ、と大地はすねた声を出した。だけど幸せな気分はつづいている。
「じゃあさ、色はぼくに決めさせて。ぼくさ、青いカヌーがいい。濃いめのブルー」
「何だ、大地は白が好きだっていってたじゃないか。自転車は白いの買ったろ」
「自転車は白だから、カヌーはちがう色がいいの」
「わかったよ。濃いブルーだな」
 父の言葉を受けとめ、大地はまた幸せをかみしめる。
 片づけを終え、二人は店を閉めて銭湯までの道を歩いた。
 季節は夏だが、夜道は冷える。大地は起毛が入ったオレンジ色のアディダスのパーカーを、父は母が編んだセーターを着こんだ。そのセーターの真ん中には、黄色いカエルがでかでかとデザインしてある。このカエルはピョン吉といって、昔はやった漫画の主人公なのだそうだ。大地はカエルが大嫌いだから、いくら人気漫画のキャラクターだからって、自分なら絶対に着たくないと思った。だのに父は五月の半ばに母からこのセーターをもらってから、銭湯にいくときだけでなく、市場にいくときや信用金庫に出かけるときなどにも必ず着ていく。
「あと一カ月だあ」大地はいった。「ねえ、ホントにあと一カ月でいくんだよね、旅行」
「ああ。いくよ」父は大地の頭に手をやった。
「早く一カ月経たないかなあ」
「そうだな」父は軽く笑っていった。「まだあの夢は見るのか?」
「もう見ない」
 あの夢とは、旅行が中止になる夢だ。父から旅行の計画を聴いた日からしばらくはちょくちょくその夢を見たが、最近では見なくなった。かわりに最近よく見るのは、『アイスホッケーマン』の原稿がなくなる夢だ。火事で焼けたり、母がごみとまちがえて捨てたり、そういう夢を週に一、二度見る。
「あのさ、お父さん」大地は路上の石を蹴り、父の横顔を見上げた。「やっぱりいいや」大地はうつむき、また石を蹴った。
「何だよ。どうした?」
「何でもない」
「気になるじゃないか」
 大地は石ころを蹴りつづけつつ、どうしようかと考えた。旅行に漫画の原稿を持っていくのを今ここで告げようか、それとも旅行のサプライズにするか。
「笑わない?」
「笑わないさ」
 よしいおう、と決意し、父を見上げた。だが父の顔が今にも笑い出しそうに見えたので、やっぱりやめた。
「おい、どうした? いえよ」
「だって絶対に笑うもん。だからいわない」
「じゃあいいさ。いわなくても」
「えっ?」
「いいたくないんだろ?」
「う、うん……」大地は困惑した。本当はいいたいのだという自分の気持ちに気づいた。
「ほら、やっぱり言いたいんじゃないか」父は大地を指さして笑った。
「お父さん、ずるいや」
「いってみろ」
「うん。あのね、ぼく今さ、漫画描いてるんだ」大地は父から目をそらしつつ、思いきって口にした。恥ずかしかったけど、不思議と心地よくもあった。「それでね、その漫画が完成したらね、『少年ドリームジュニア漫画新人賞』に応募しようと思ってるんだ」
 大地はそっと父を見た。父は笑わず、真剣な表情で自分の話を聴いてくれている。
「それでね、夏休みの旅行までに下書きを仕上げるからさ、お父さん、読んでくれる?」
「いいのか?」
「お父さんに一番に読んでほしいんだ」
「よし、わかった」
 父は大地の肩をぽんとたたき、まっすぐ前を見て微笑んだ。普段もよく遠くを見つめて笑うけど、こんなにもうれしそうに笑う父を見るのははじめてだ。
 大地は父と並んで歩きながら、最高におもしろい漫画を描くぞ、と心に誓った。



つづく

第4話「旅行にいくぞ!」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」
第3話「はじめて抱いた将来の夢」


「ただいまあ」
 ドアが開く音とともに、母の声が聞こえてきた。父の声がその後につづいた。店を終えて二人が帰ってきたのだ。
 大地は驚いて時計を見た。九時半だ。嘘でしょ、と思わず声がもれた。まだ七時くらいだと思っていた。漫画を描くのに熱中しすぎて、こんな時間になっちゃったのか?
「何よ、大地。ご飯食べてないの?」
 母のとがった声が聞こえ、大地はあわてて部屋を出た。
「おかえりなさい」
「おかえりじゃないわよ。ご飯も食べないで。どこか具合でもわるいの?」
「えっ、あの……、宿題やってて」
「宿題って、あんた、ご飯食べるの忘れて……」
「まあ、いいじゃないか」父がのんびりといった。「ちょうど大地に話があるんだし」
「話って?」
「まあ、とにかく座れ」
 父が笑顔でいったので、大地は安心して座った。母はまだちょっとぷりぷりしていたが、あきらめたように台所へと向かうと、ナベに火をかけた。
 晩ご飯は大地の大好物のカレーだった。
 大地はいただきますというと同時に、がつがつとやった。ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、豚肉をやわらかく煮こんだ母自慢のカレーだ。この甘口のこのカレーを、以前までの大地は世界一だと思っていた。今はちがう。世界一は、春休みに父がつくってくれた辛口のカレーだ。肉はひき肉を使っていて、野菜もすべてみじん切りにした一風かわったカレー。キーマカレーというのだと、父は教えてくれた。そのカレーを口にして以来、母がつくる甘口のカレーをもの足りなく感じるようになった。
 だけど今日のカレーは最高においしく感じる。もう九時半をすぎていて、おなかがぺこぺこだからだろう。いや、きっとそれだけじゃない。漫画だ。漫画を描くというでっかい夢ができて、その夢に向けて歩きはじめた後だから、最高においしく感じるのだ。
 父の前にはカレーはない。いつも父は晩ご飯を食べる前に缶ビールを飲むのだ。飲み終わってからご飯を食べる。
 ぐびっと喉を鳴らす音が大地の耳にも聞こえた。大地はカレーを食べながら、父の顔をちらちらと見た。噴き出しそうになるのをこらえる。いつも格好いい父だが、ビールを飲むときの顔だけは、うっとりとしていてちょっとまぬけだ。
「大地」父が缶を置き、大地を見た。「おまえ、今度の誕生日で何歳になる?」
「十一歳」
「七月の二十七日だったな。その日はもう夏休みか?」
「うん。夏休みは七月二十四日からだから」
「そうか」父は微笑み、また缶ビールを口に持っていった。「去年の誕生日はは自転車を買ってやったな。どうだい。大事に乗ってるかい?」
「うん」大地は心の底から答えた。ホワイトホースは、今までもらったものの中で、何よりも素敵なプレゼントだ。
「今年はもっとすごいものをプレゼントしたいと思ってるんだ」
「本当?」
「ああ、本当だ」
 父は缶ビールを飲み干すと、缶を軽く振った。それを見た隣の母が立ち上がり、二本目を父に差し出した。
 大地はカレーを食べながら、どこか不思議な気持ちで二人の父と母の様子を眺めた。とりわけさっきぷりぷりしていた母の必要以上の笑顔が不思議だった。だいたいどうして誕生日の話なんかはじめたのだろう。まだ二カ月も先なのに。
 だがそんな思いもすぐに吹き飛び、大地は今年の誕生日のプレゼントについてうきうきと考えた。自転車よりすごいプレゼントって何だろう。
「知りたいか? プレゼントの中身」
「もう決まってるの?」
「ああ」父は缶のプルトップを開け、二本目のビールをぐびりとやった。「決まってる」
「まだ五月なのに?」
「元服だからな。今年の誕生日は」
「ゲンプク?」
「男の子の成人の儀式よ」母が答えた。「昔はね、男の子は十一歳で大人の仲間入りをしたのよ。そのとき挙げる式を元服っていったの」
 母の説明を聴いても、大地にはぴんとこなかった。
「だからな、今年の誕生日は特別なんだ」
 何が特別なの? とはもう聞かないでおいた。お父さんとお母さんが特別というんだから特別なんだ、と思うことにした。
「それで何くれるの? プレゼント」
「何だと思う?」
 大地は考えてみた。自転車よりすごいもので、特別の誕生日にくれそうなもの。
「わかんないよ」
「よし、じゃあヒントだ。このプレゼントは形のあるものじゃない」
「形がない……。粘土?」
「そういう意味じゃない」父は笑った。隣で母も爆笑だ。
「よし、じゃあもう一つヒントだ。このプレゼントは長い時間が必要である。夏休みとか、冬休みとか、ゴールデンウィークとか」
「あっ……」
「わかったか?」
「もしかして……」
 胸がどきどきしてきた。形がないもので、時間が必要なものなら、答えは一つしかない。それが今度の誕生日のプレゼントなら、たしかに自転車以上にすごいものだ。いや、世界中のどんなものより最高のものだ!
「いってみろ」
 答えはわかった。だけどもしちがっていたらと思うと、口にするのが怖かった。
「もしかして旅行?」思いきって口にすると、胸のどきどきが倍増した。
 父はにやにやするだけで答えない。ハズレなのだろうか。
「ちがうの……?」
 泣きそうになった。父の答えしだいでは、本当に泣いてしまうかもしれない。
「ちがうんだ……?」
「アタリだ」父はいい、静かにビールを飲んだ。「旅行だ」
「ホントに? ねえホントにホント?」
「ああ。本当だ。今度の夏休みはお父さんと旅行しよう」
 やったあ、と席を立って、食卓のまわりを跳ねながらまわった。これこれ怪我するっしょ、と母がたしなめる声が聞こえたが、大地は走るのをやめなかった。怪我なんてするもんか。それどころか、ここが屋根のない場所だったら空だって飛べそうだ。
「ねえ、ホントだよね?」食卓を三周したところで足をとめ、大地は念を押した。「ホントにいくんだよね?」
「本当だ」
「お店は?」
「休む」
 やったあ、と大地はまた飛び跳ねた。
「ねえ、どこにいくの?」
「行き先か?」
「うん」
「わかった。座れ」
 大地は座り、父を見た。「どこ?」
「まあ待て。おい、お母さん。カレーくれるか」
「もう、早く教えてよ」
「いいじゃないか。お父さん腹ペコなんだから」
 父は母からカレーを受け取ると、ゆっくりと食べはじめた。牛のようなのろのろとした食べ方。いつもの父の食べ方ではない。わざとじらしているんだ、と大地はいら立った。
「早く教えてよお」
「よしわかった。行き先はな……」
「うん」
「やっぱりカレー食ってからだ」
「もう、早く教えてよお」
「そう急かすな。先に飯だ。腹ペコなんだぞ、こっちは」
「食べながらだっていいじゃん。ねえ、教えてよ」
 父は答えず、カレーを食べつづけた。教えてあげなさいよ、と母が口を出しても、父はにやにやと笑うだけだ。
「ねえ、教えてよお」
「わかったわかった。カレー食い終わったら教えるから」
「ホントだね」
 考えてみれば、旅行にいけるんだから場所なんてどこだっていいのだ。だけどやっぱり気になる。どこにいくんだろう。海外だろうか。それとも国内のどこかか。どっちでもいい。どっちでもいいけど、なるべくなら遠いところがいい。
 ようやく父がカレーを食べ終えた。
 待ってましたとばかりに大地は口を開いた。「ねえ、どこに……」
「おい、お母さん、カレーおかわり」
「もう、お父さん!」
「わかったわかった、冗談だよ。よし、いうぞ」
「うん」
「行き先はな」
「うん」
「釧路川だ」


釧路川?
 大地はまた父がからかっているんだと思った。だって釧路川なんて歩いてすぐだ。そんなのは旅行とはいわない。ただの散歩だ。
「釧路川にいく」
「釧路川って、あの釧路川?」
「そうだ」
「嘘でしょ? ねえ、ホントはどこにいくの?」
「だから釧路川だ」
「そんなのないよ!」大地は乱暴に立ち上がった。「釧路川なんて、歩いてすぐじゃないか!」
「おい、大地」
「ぼくもう寝る。お父さんとはもう口利かない」
「おい、大地、待て」
 泣くのは自分の部屋に戻ってからだと思っていたが、途中で涙が出てきた。五年生にもなって泣くなんて恥ずかしい。だけどしょうがないじゃないか。ホントに旅行にいけると思っていたのだから。一生かなわないと思っていた夢がかなったと思ったのに、それが一瞬で消えちゃったのだから。
 部屋のふすまを開けようとしたとき、肩に手がかかった。母だった。
「お父さん、待てっていってるっしょ。ちゃんと話を最後まで聴きなさい」
「やだよ」
「聴きなさい。お父さんが大地に意味もなく意地わるするわけないっしょ」
 母にうながされ、大地は鼻をすすりながら食卓に戻った。
 父は苦笑し、母からウィスキーの瓶とグラスを受け取った。晩ご飯の後にいつも飲む、七面鳥の絵のラベルのウィスキーだ。父はグラスにウィスキーを注ぐと、そのグラスを持ち上げて軽く振った。氷がとける音を、まるで何かの楽器の音色のようにうっとりと聴き、ウィスキーを口にする。そうやって一日の最後の時間をおだやかにすごすのが好きなのだと、いつか父はいっていた。そんな父の静かな動作を眺めているうちに、大地の心は少しずつ落ちついていった。
「お母さんのいうとおりだぞ、大地」父はグラスを置いた。「話はちゃんと最後まで聴くんだ」
「はい」大地は素直に返事した。旅行の行き先についてはまだちょっぴり反感があるけど、ついさっきの自分の態度を恥じる気持ちはめばえていた。
「旅行の行き先は釧路川だ。これはかわらない」
「うん。でも……」
「釧路川はすぐそこだ。そういいたいんだろ?」
「うん。だって旅行っていうのは、もっと時間をかけて遠くにいくことでしょ?」
「そうだ」父はグラスを口に運んだ。「たしかに釧路川じゃもの足りないかもしれない。だけど大地、まずは今度の旅行の計画を全部聴いてくれないか。計画を聴いて、それでもつまらないというなら、行き先を変更しよう」
 父はウィスキーのグラスを置き、立ち上がって寝室に消えた。どうしたのかと母に訊こうか口を開きかけたとき、父は何かを手にして戻ってきた。
 父は席につくなり、手にしていたものをテーブルに広げた。北海道の地図だった。
「大地、地図の見方はわかるよな?」
「わかるよ」
「よし。だったら釧路はどこかわかるな」
 大地は頷き、広大な北海道の中から一点を指さした。東部に横たわる『釧路平野』の文字の下に『釧路市』と小さく書いてある。
「そうだ。そこが釧路だ。赤くなってるだろう。大きい街を表してるんだ」
「うん」
「その赤い部分の中に日の出町がある。地図には書いてないけどな」
「うん」
「それでこの水色の細長い線が釧路川だ」
 大地は人さし指を地図から離し、釧路川を見た。川は釧路から網走に向かう釧網本線の線路に沿って、くの字の逆にまがっている。その先っぽは湖になっていた。屈斜路湖だ。
「どうだ。長いだろ?」
「うん」
「一五四キロあるんだ。といっても直線距離にしたら五〇キロかそこらだけどな。ほら、釧路川はくねくねしてるから。とにかく川としては長いだろ?」
「うん。長い。だってこの先っぽの湖、釧路よりも網走に近いもん」大地はいいながら、ぴんとくるものを感じた。興奮で、全身がぶるっと震えた。「もしかして釧路川にいくって、この湖にいくっていう意味?」
「そうだ」
「屈斜路湖にいくのかあ」大地はうっとりといった。海外旅行や内地への旅行に比べたらチンケなものだが、そこまでぜいたくをいうつもりはない。家族旅行ができるなら屈斜路湖でじゅうぶんだ。
「それだけじゃないぞ」
「ほかにもどこかにいくの?」
「まあ聴け。今から計画を発表するから」父はウィスキーを飲み、北海道地図を大地に見やすい位置へとずらした。「まず一泊目は屈斜路湖だ。この湖のほとりにテントを張る」
「テントってキャンプ? キャンプするの?」
「そうだ」
「やったあ」
「それでな、二日目は摩周まで移動する」父は『ましゅう』とひらがなで書かれた釧網本線の駅の周囲を指さした。「ここでキャンプだ」
「またキャンプするの?」
「全部キャンプだ」
 大地は自分の中のキャンプのイメージを頭に描いた。星空。ランプ。バーベキュー。うきうきして身体がぶるっと震えた。
「三日目は標茶だ。ここだな」父は『ましゅう』にあてていた人さし指をずらし、『しべちゃ』と書かれた駅のあたりでとめた。
「またキャンプ?」
「そうだ。いったろ? 全部キャンプだ」
「何に乗っていくの? ミニキャブバン?」
 父は黙って首を横に振った。
「じゃあ汽車?」
 また首を横に振る。笑いをこらえているみたいに見える。
「まさか自転車?」
 父はまた首を横に振り、大地を見てにかっと笑った。「カヌーだ」
「ええっ?」
「カヌーで釧路川を下るんだ。屈斜路湖からはじめて、摩周、標茶、釧路湿原、そんで五日目に鳥取橋の河川敷に戻ってくる。つまりこの町に帰ってくるってわけだ。どうだい?」
「最高だよ」大地は心からいったが、本当のところは釧路川をカヌーで下る光景をうまく頭に描けなかった。旅行の計画が壮大すぎるのだ。
「いいか、大地も漕ぐんだぞ。お父さんと二人で力を合わせて川を下るんだ」
「できるかな?」
「楽じゃないさ。甘えも許されない。川には危険がいっぱいあるからな。それに毎日キャンプ生活だから、テント張ったり煮炊きしたり洗い物したり、やることがいっぱいある。毎日へとへとになるぞ」
 大地は不安になってきた。父の足を引っ張りはしないだろうか。
「自信ない?」母がいった。「一皮むけて帰ってくるの、お母さん期待してるんだけどなあ」
「あれ? お母さんはいかないの?」
「いったっしょ。元服だって。男の子の成人の儀式だから男同士の方がいいの」
「どうだ、大地。いくかい?」
「もちろん」不安はあるものの、それをぐんぐん追い越すように、大冒険への期待がふくらんでいった。
「よし。じゃあ今年の夏休みはお父さんと二人で釧路川の川下りだ」


大地はその晩、夢を見た。
 大地は父と一緒に旅行の荷物をミニキャブバンのトランクルームに積みこんだ。あれ、どうしてもう夏休みなんだろう? とちらりと思ったが、すぐに気にならなくなった。
 すべての荷物を積み終えると、大地は助手席に乗った。父も運転席に座り、勢いよくドアを閉めた。
「さあ相棒、準備はいいか?」父がエンジンをかけた。
「うん」
「よし。いくぞ」
 車が走り出そうとしたところへ、店の常連客の一人がやってきた。
「あれ? 大将、今日は休みかい?」
「息子と旅行にいくんですよ」
「参ったなあ。今さらほかの店にもいけないよ。大将、特別に何かつくってくれんかね」
 客がわがままをいい出した。大地は不安になった。まさかお父さん、料理をつくり出すんじゃないか? その不安は見事に的中した。父が車を降り、店を開けたのだ。冗談じゃないよ、と大地は思ったが、なぜだか言葉が出てこない。
 大地は助手席に座ったまま、客が出てくるのをいらいらと待った。早くしてくれないと、店が開いているとかんちがいして客が集まってきちゃうじゃないか。案の定、客がぞくぞくとやってきて、店はいつものように混みはじめた。
 父が戻ってこないまま夕方がきて、夜になった。四泊五日の旅行が三泊四日になってしまった。まあいい。明日こそはお父さんと旅行にいけるんだ。だが翌日も父は店を開けた。その翌日も、そのまた翌日も店を開けて、あたりまえのように仕事した。
「お父さん、旅行は?」
「そのうちいくよ」
「そのうちっていつ?」
「そのうちはそのうちだ。ほら、わかったら早く洗い場に入れ」


 目が覚めた。
 頬が涙で濡れていた。夢で泣くなんてひさしぶりだった。大地は涙をぬぐいながら布団を出て、学校にいく服にきがえた。旅行が中止になったのが夢とわかってほっとしたものの、いやな感じはつづいていた。
 部屋を出ると、朝食の準備をする母と目が合った。
「あれ、大地。早いじゃない」
 大地はおはようもいわずに夢の話をはじめた。話しながら不安がこみ上げるのを感じた。旅行にいくっていうけど、父の食堂は釧路一の繁盛店だし、父は働き者だから、夢のような出来事が起きても不思議ではない。
「大丈夫よ」母はあきれた顔でいい、しかしやさしく微笑した。「そういう夢ってみんなよく見るんだから。たいせつなものができるとね、その分それをうしないたくなくなるから、不安も生まれるんだわ」
「お母さんも見る? そういう夢」
「最近は見ないけどね、したけど昔はちょくちょく見たわ。一番よく見たのは大地がおなかにいるときさ。流産する夢しょっちゅう見たもね」
「リューザンって?」
「妊娠中の赤ちゃんが流れて消えちゃうこと。お母さん何度も流産の夢見ちゃ、うなされたんだわ。したけどちゃんと大地は生まれてきたっしょ? 夢なんて気にすることないって」
 ほら早く顔洗ってきなさい、と母にうながされ、大地は洗面所に向かった。
「ほら、お父さん、市場から帰ってきたわ」
 大地は足をとめ、耳をすました。車のアイドリングの音が店の前で響いている。ミニキャブバンのエンジン音だ。その音が消え、ドアが開閉する音が鳴ると、父が市場で買ってきた食材を車から下ろす気配が、二階まで届いた。
「学校にいく前に店によるんっしょ?」
「うん」大地は頷いた。毎朝の日課だから、当然いくつもりだ。
「したらお父さんにも夢の話しなさい」
「どうして?」
「いやな夢を見たら朝のうちに誰かに話せ、っていい伝えがあんだわ」
「だけどもうお母さんに話したじゃん」
「お父さんにも話しときなさい」
 朝食を終えて階下の店をたずねると、調理台に食材を並べていた父が、いつもの笑顔で大地を迎えた。
 大地は夢の話をした。
「大丈夫だ」父はしっかりと答えた。「旅行にいくだいぶ前から、休業のお知らせを貼り出すから。わがままいう客なんていないさ」
「ホント? ホントに旅行にいくんだね」
「いくさ。死んでもいく」
「ええ? 死んだらいけないよ」
「そうだな」父は笑い、食材の整理に取りかかった。「だけどお父さん、幽霊になってでも必ず大地と旅行にいくから」
「やめてよ。そういう冗談」
「たとえだよ。絶対にいくから安心しろ。いったろ。今度の旅行は大地の元服なんだって。ただの旅行じゃないんだ」
「うん」大地の心はようやく晴れ、昨夜のうきうきした気分が戻ってきた。


                                          つづく

第3話「はじめて抱いた将来の夢」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き」
第2話「大地の放課後」


 その日学校から帰ると、大地は店に顔を出さずに二階の部屋に直行した。
 机の上に置きっぱなしの『バスケットマン』の束から、第十巻を取った。この十巻セットを買った日から昨日までの四日間で、第九巻まで読んだ。今日はいよいよ最終巻だ。大地は、主人公とその仲間が赤いユニフォームを着て並んでいる絵の表紙をめくると、物語の中へと入っていった。
 主人公がコートに倒れている! 足の痛みに耐えて試合に出つづけ、ついに力つきたのだ。第九巻はそのシーンで終わった。そして第十巻はそのシーンではじまった。
 読み出したらもうとまらなかった。空腹や喉の渇きも感じずに読みふけった。お願いだから、このひとときを誰にも邪魔しないでほしい。読んでいる途中で母が部屋に入ってきたり、新聞の勧誘の人がドアをうるさくたたいりしないでほしい。
 今、読み終えた。全身が熱い。気づくと目に涙がたまっていた。哀しくない話で泣いたのははじめてだ。
 大地はもう一度第十巻を手にし、最終回を再読した。またジーンときた。動けない。立てない。物語の世界からしばらく離れたくない。
 イマイケンジって漫画家はすごい。こんなに感動的な漫画が描けるんだから。
 自分もこんな漫画を描きたい。大地の心にそんな途方もない夢がわき上がった。ずっと前から漫画を描いてみたいと思っていたけど、ここまではっきりと意識したのははじめてだった。一度その夢を意識すると、いても立ってもいられなくなった。
 大地は引き出しからお金を出して立ち上がり、部屋を出た。外階段を駆け降り、ホワイトホースにまたがった。行き先は100円ショップ。漫画を描くのに必要な文房具を買いにいくのだ。大地は本気で漫画を描いてみようと思った。
 ノートやペンをいくつか買い、家に戻った。机に向かい、買ってきた罫線入りのノートを広げて漫画のアイデアをひねり出した。まずはどんなジャンルの漫画を描くかだ。やっぱりスポーツ漫画がいい。だけどスポーツといってもいろいろある。人気のスポーツはサッカーや野球だけど、人気があるだけあってありきたりだ。かといってバレーボールやテニスはくわしくないし、ボクシングは野蛮なシーンを描かなくちゃならないし……。
 そうだ、アイスホッケー漫画を描こう。アイスホッケーなら知識もあるし、近くのアイススケート場にいって選手の動きをスケッチできる。日本のトップリーグのクレインズは今はシーズンオフだけど、釧路には小学から高校、大学、社会人と無数にチームがあるから、そのチームの練習や試合を見学させてもらえばいい。
 早く描きたいと気が急いたが、その前にいろいろと決めなくてはならない。タイトルや登場人物。物語の舞台となる町。そして一番大事なのがストーリーだ。
 ストーリーなら、一ついいアイデアがあった。
 大地はいつも登下校のときやホワイトホースに乗っての外出のとき、あれこれと空想する。小さい頃からいつも一人ですごしている大地の、いつのまにかできた習性だ。そんな空想の中のいくつかがしだいにふくらみ、ストーリーに発展していく。その中に、アイスホッケーの話が一つあった。
 こんな話だ。
 主人公は小学五年生の少年で、東京生まれの東京育ち。運動神経抜群で、学校中のヒーロー。リトルリーグでは上級生を押しのけてエースで四番。将来はプロ野球の選手になるだろうと、自分もまわりの大人たちも自然とそう思っている。
 ところが三学期がはじまる一月に父親の仕事の都合で釧路に転校することになる。少年は転校先の釧路で野球チームをさがす。しかし見つからない。北国の釧路は野球がさかんな土地ではないのだ。かわりに人気があるのはアイスホッケーだった。市内に五つあるスケート場はどれも一年中営業しているし、冬場は大人たちが校庭に水をまいて外リンクをつくるから、釧路の子どもたちはみんな鬼ごっこをするようにアイスホッケーに親しんでいる。市内の各学校には必ずアイスホッケー同好会があるし、それ以外にもクラブチームがいくつもある。
 主人公の少年が転校してきたのは一月だから、校庭に外リンクがあった。少年は新しいクラスメイトに誘われ、昼休みにアイスホッケーをする。そこで生まれてはじめて屈辱を受ける。野球では将来プロ入り確実といわれていた少年も、ウィンタースポーツの経験はなく、アイスホッケーどころか、氷の上にまともに立っていることすらできないのだ。
「内地のやつはスケートもできねえのか?」
 少年はクラスの笑い者になる。今までどんなスポーツでもトップを取ってきた少年には耐えられない屈辱だ。
 このまま負けっぱなしではいられない。
 少年は翌日から学校をさぼり、アイススケート場にかよってスケートの特訓をする。そして一カ月後リベンジを果たす。いつしか少年はアイスホッケーの魅力に取りつかれ、やがて北米のプロリーグNHLで活躍する。
 そんなストーリーだ。
 いけるぞ!
 全身が興奮で震え出した。身体の中にもう一人べつの自分がいて、そいつが窮屈な世界から飛び出そうと暴れているみたいな感じだった。描きたい。描くぞ。イマイケンジみたいにすごい漫画を描くんだ!
 だけどあせったら駄目だ。丁寧に描くのだ。とくに登場人物の描き方には力を入れる。『バスケットマン』は話もおもしろかったけど、それ以上に登場人物が生きている人間みたいで、そこが最高に魅力的だった。
 大地は罫線入りのノートに登場人物の簡単な顔と名前、プロフィールを書いた。まず主人公の少年。名前は大地にした。ちょっとずうずうしいかなとも思うけど、自分が描く漫画なのだから自由なはずだ。他の登場人物の名前もクラスのみんなの名前を借りた。拓也。大介。翼。奈良。もちろん全員いやなやつの役だ。
 タイトルはとりあえず『バスケットマン』をまねて『アイスホッケーマン』にした。ほかにいいタイトルが浮かんだら、そのときにかえればいい。
「よおし。やるぞ!」
 大地は無地のノートの表紙を勢いよくめくり、2Bのえんぴつを手に取った。まずはこのノートに下書きだ。いずれは本物の原稿用紙にインクを使って描くつもりだけど、今はまだ下手っぴいだから練習のつもりでのびのび描こう。
 大地は一コマ目を描きはじめた。失敗。消しゴムで消す。また描く。うまくいかない。思ったよりもむずかしい。だけどいやにはならない。漫画を読むだけより、自分で描く方が何十倍も楽しい。

   
                                           つづく

第2話「大地の放課後」

今までのお話
第1話「お父さん、大好き!」


 二階に上がると、母が居間の食卓で編み物をしていた。
「お帰り」母は編み物の手を休めずにいった。
 大地は靴を脱いで家に上がり、母の向かいに立った。「お母さん。今日の洗い場、ぼくがやるよ」
「そう?」母は編み物の手を休め、右手で自分の肩をもんだ。「いいけど、どうして?」
「お父さんに頼まれた。お母さん疲れちゃったからって」
「そんなこといったろうか?」母は首をかしげた。「まあいいわ。べつに疲れてないけど、大地がやりたかったらやんなさい。そのかわりいやになっても途中で投げ出しちゃ駄目だからね。お母さん、途中からやるの好きでないんだから」
「うん」大地は素直に返事しつつ、馬鹿にしないでよ、と心の中で抗議した。最近じゃ母よりうまく仕事ができるようになったと自負していた。
 母が編み物を再開した。
「何編んでんの?」
「セーター」
「誰の?」
「お父さんの」
 大地はほっとした。母親が編んだ服なんて着る羽目になったら、また学校で馬鹿にされる。
「おやつ食べていい?」
「いいけど、ぼろぼろこぼさないでよ」
 大地は冷蔵庫のわきのカゴに向かい、そこに積んであるお菓子の山をごそごそやった。ビスケットやチョコレートといった甘いお菓子も魅惑的だったが、今日の気分はポテトチップスだった。コイケヤののり塩。大地の大好物の一つだ。
 部屋に入るとポテトチップスを机に置き、ランドセルを下ろした。先に明日の用意をすましてしまおうかな、と時間割表に目をやりつつ思ったが、やっぱりいつものように本棚に直行した。そこに漫画本がぎっしりと並んでいる。毎月のこづかいで買ったもので、先日数えてみたら百二十三冊あった。あたりはずれはあるものの、大地にとってすべてが宝物であり、バイブルだった。バイブルだから毎日読む。当然、今日も読む。
 ポテトチップスをばりばりとやりながら本を選んだ。いつもならすぐに決まるのだが、今日は読みたい本がなかなか決まらなかった。そんな日は新しい漫画を買いにいく日なのだと大地は決めている。
 大地は机の上の時計を見た。洗い場のアルバイトがはじまる六時まで、まだ一時間半以上ある。
「よし」大地は声に出していうと、机の引き出しを開けた。そこにプラスティックの小物入れがあり、中に毎月のこづかいとお年玉の残りを合わせたお金が入っている。その中から千円だけ抜き取り、ズボンのポケットに入れて部屋を出た。
「どこいくの?」
「本屋」
「また漫画っしょ」母はあきれた声を出した。「たまにはまじめな本も買いなよねっ」
 漫画だってまじめなのもあるんだぞ、と内心で思ったが、ここで口答えしても何の得にもならない。大地は、はあい、と生返事すると、学校には絶対にはいていかないアディダスのスニーカーをはいて外階段を駆け降りた。
 階段の真下にとめた白いマウンテンバイクに歩みより、鍵をはずした。去年の誕生日に父と母に買ってもらった二十一段変速の自転車だ。
「さあいこうぜ、相棒」
 大地は愛車に声をかけ、サドルにまたがった。このマウンテンバイクは友達がいない大地の唯一の遊び相手だ。大地はひそかにホワイトホースと名づけている。
 父や坂巻が車を発進させるときにクラクションをならすのをまねて、ベルを一つ鳴らして走り出した。廃屋だらけの日の出商店街をとおりすぎ、ホワイトホースと大地は大通りに出た。人の波をよけて、レンガ調の歩道を走る。いつものように大地は、どけどけどけえ、と心の中で声を上げた。どけどけどけえ、どけどけどけえ、大地様とホワイトホースのおとおりだあ。
 こうして風を切って自転車を走らせていると、拓也たちから受けるイジメをいっとき忘れられる。学校の中での自分は敵におびえるウサギだが、一歩外に出れば翼を持った鳥だ。目の前には自由が広がり、思いどおりに飛んでいける。もちろん明日の学校を思うと気分は沈むけど、放課後は誰にも邪魔されない自分だけのものだ。
 鳥取橋に差しかかった。
 大地がホワイトホースで走るとき、たいていはこの橋をわたる。川のこちら側にはクラスの誰がいるかわからないからだ。一度、川のこちら側のブックオフでアイスホッケー部の連中に出くわしてしまい、手にしていた漫画についてさんざんからからかわれた。それ以来、大地は漫画本はおろかシャープペンの芯一つ買うのにも、川向こうの店にいくようになった。
 今向かっているブックオフは、大地の家から川をはさんで五キロほどの距離にある。ホワイトホースを立ち漕ぎで飛ばしても、三十分は軽くかかる。楽な距離ではないが、クラスのやつらの目の届かない古本屋となると、その店以外には見あたらない。
 橋の向こう側には日本製紙の工場がでかでかと横たわっている。アイスホッケーのトップリーグ「クレインズ」の母体の会社だ。
 大地はペダルを強くふみながら工場のエントツの煙を見た。白い煙は、河口の方角から川上に向かって流れていた。今日は南風だ、と大地は自転車を走らせながらつぶやいた。煙が海に向かっていたら北風。小学校に上がるときに父に教えてもらった。
 橋の真ん中までくると、海からの風が頬を殴った。その風の強さに顔をしかめつつ、大地は橋の下を流れる釧路川を見た。正式な名前は新釧路川。釧路川下流域の放水路で、その川の水は、町の生活排水を受けて灰色とも茶色ともつかない色に濁っている。
 橋をとおりすぎ、川向こうの町に出た。日本製紙のでっかい工場が真横にきた。大地はサドルから腰を浮かせ、力いっぱいペダルを漕いだ。デジタル表示のメーターの数字がぐんぐんと上がっていく。その数字と町の風景とを交互に見ながら、大地はまた心の中で叫んだ。どけどけどけえ、どけどけどけえ、大地様とホワイトホースのおとおりだあ。
 日本製紙の工場をとおりすぎると、通りの右側に釧路アイスアリーナが見えた。日本製紙クレインズのホームリンクだ。五月の今はリーグがシーズンオフだからクレインズの試合はないが、九月になれば、また毎週のように熱い戦いがおこなわれる。大地は今シーズンもまた全部の試合を観にいくつもりだった。昨シーズンは内地のチームに優勝を持っていかれたが、今年は絶対に優勝してくれると信じている。何たって釧路が一番強いんだから。野球とかサッカーとかはてんで駄目だけど、アイスホッケーだけは釧路が日本で一番なんだから!
 だったらどうして自分ではアイスホッケーをやらないんだ?
 大地の耳にそんな言葉がふれた。坂巻の声のような気もしたし、べつの声みたいな感じもした。どうしてやらないかって? 決まっている。拓也がいるからだ。拓也と拓也の手下たちがいるアイスホッケー同好会になんて絶対に入るもんか。
 ブックオフについた。
 ホワイトホースを駐輪場にとめ、店に入った。古い漫画の紙の匂いが充満する独特の世界が、大地を包んだ。大地はいつものようにコミックスの棚をはしから歩き、漫画さがしの旅をはじめた。最近はまっているのはスポーツ漫画だ。今日も大地はスポーツ漫画を買うつもりだった。
 105円コーナーの中ほどで、ある漫画のタイトルが目に入った。『バスケットマン』。バスケットボールの漫画のようだ。作者はイマイケンジ。聞いたことがない漫画家だった。
 第一巻を手に取り、冒頭の部分を立ち読みしてみた。絵のタッチが自分好みだったので期待がふくらんだ。三ページほど読んだところで、いける、と確信した。この漫画はひさびさの大ヒットになりそうだ。
 ふと視線を上に向けると、棚の最上段に『バスケットマン』がセットで置いてあった。全十巻。「完結」とマジックで書いてある。値段は八百円。持ってきた千円でおつりがくる。やったあ、と大地は心の中でばんざいした。こんなにうまい具合に全巻セットが手に入るなんてラッキーだ。きっとこの漫画がぼくに読んでおくれといってるんだ、と大地は解釈した。
 大地は近くにいた店員に『バスケットマン』の十巻セットを取ってもらい、うきうきとレジに向かった。
 

 家に戻ったのは六時十分前だった。
 すでに店は満席らしく、それどころか外にまで客が並んでいた。今夜も忙しくなりそうだぞ、と武者震いしながら大地は外階段を駆け上がった。買ってきた『バスケットマン』を机に置き、急いで準備して店に下りた。
 十人がけのカウンターには大地がよく見る顔がいくつもあった。大地が「いらっしゃいませ」というと、客のうちの何人かが、定食をかきこみつつ、おっ坊主きたな、という感じの微笑で答えた。
 大地はこの食堂の店員である誇りを胸いっぱいにしながら洗い場に入り、すでにがちゃがちゃになりかけている食器の山を見た。この洗い場のアルバイトをはじめたばかりの去年の夏は、この食器の山を見るだけで泣きそうになっていたものだった。それが今では逆に、食器の数が多ければ多いほど燃えてくる。
 食器に手をかける前に、大地は厨房を振り返り、忙しく動きまわる父を見た。父は大地の視線に気づくと、頼むぞ、と目で合図を送ってきた。了解、と大地も目だけで返事して仕事にかかった。
 洗い場には二つのシンクがある。その一つにお湯をためておき、下がってきた食器をつけるのだ。つけておいた食器をスポンジで洗い、もう一つのシンクに重ねていく。限界までたまったら水道ですすぎ、台の上の水切りに入れて自然乾燥させる。ある程度乾いた食器をふきんでふき、父が盛りつけする調理台に持っていく。そしてまた洗い場に戻り、食器を洗う。大地の仕事はそれのくり返しだ。
「ごちそうさん」
 客が立ち上がり、自分の食器をカウンターと厨房の間の棚に置いた。人手不足を気遣ってか、どの客もそれがルールであるかのように、食べ終えた食器を洗い場近くの棚に置いてくれる。大地はありがとうございましたと口にしながら、下がってきた食器をすかさずつかんでシンクにつけた。すぐに片づけないと棚が食器でいっぱいになってしまうのだ。
 またべつの客が食事を終え、棚に食器を置いていった。大地はすぐにその食器をシンクにつけた。その間にもべつの客が立ち上がって食器を棚に置いていく。引っ切りなしだ。気を抜くとカウンターの棚はごみ処理場のごみの山みたいになってしまう。だからといって棚の食器ばかり下げていたら、今度はシンクが食器でいっぱいになる。食器を洗いながら下げ、下げながら洗う。いっときも休まらない。
 今日もまた戦争がはじまったぞ。大地は気を引きしめた。これから閉店の八時までの二時間、大地の戦いはつづく。だけどいやじゃない。くたびれるけど、最高の気分だ。
 その気持ちをいつだったか父に告げたとき、父はうれしそうにこういった。
「そいつはな、大地。いっときもさぼらずに戦いつづける者にしか味わえない、でっかい勲章なんだ」
 どんなもんだ、と大地は食器を洗いながら、いじめっ子たちに向けて心の中で叫んだ。おまえらはこの最高の気分を味わったことがあるか。ぼくはいつもこうしてさぼらないで戦ってるんだ。この姿を見ても、まだぼくをいじめようと思うか!
 いじめっ子連中はアイスホッケーをやっている。それも戦いといえば戦いだが、大地にいわせればしょせんは遊びにすぎない。一方、洗い場は人の役に立つ立派な仕事だ。週に一度か二度だけだけど、この食器洗いは自分の仕事だと思っている。長い休みのときは母にかわってほとんど毎日店に出るし、日によっては夜の倍以上に忙しい昼どきにも、洗い場に立つ。
 自分はプロの食器洗いなのだ。大地はそう自覚している。もうルーキーではない。シンクのスペースを考えて同じ形の食器をつづけて洗うとか、客が食べている定食を観察してどの食器が不足しているかを把握するとか、シンクにためた水をどのタイミングでかえるかの判断とか、そういったいっぱしの技術も持っている。
 一方、父も大地をプロとしてあつかっている。小学生だからといって、店に立つ以上は甘い顔ばかりは見せてくれない。だらだらと仕事していれば注意してくるし、食器をわるなどのミスがひんぱんにつづけば叱責だって飛んでくる。
 そのかわり、父は大地に時給五百円のアルバイト代をはらっている。法律の問題もあるから直接手わたすという形は取らないが、毎月、大地が働いた分のお金を釧路信用金庫の口座に預けているのだ。口座の名義は中山大地。その預金通帳は、いつか大地が本当にそのお金を必要とする大きいものに出逢うまで、父が預かる約束だ。
 自分が働いてためたそのお金に思いを馳せるたび、全身がぶるっと震える。今もちょっとだけ考えて、ぶるっときた。正確な金額はわからないけど、大地の見積もりでは預金額は十五万円近くになっているはずだ。
 何が買えるだろう。大地は食器との格闘をつづけながら考えた。十五万円! ブックオフの105円コーナーの漫画なら千五百冊近く買える金額だ。もちろん父は、そのお金を漫画に使うことなど許してくれないだろう。もっと大きなものに使う約束なのだ。だけど大きいものって何だろう。今はまだ想像すらできない。
 七時台になっても客の勢いはとまらなかった。今日も満員御礼。当然だ。ナカヤマ食堂の定食はどれも最高においしくて、ボリュームもあって、おまけに安い。すべての定食がたったの五百円。トンカツ定食もレバニラ炒め定食もしょうが焼き定食もザンギ定食も刺身定食も、みんな五百円。その定食が五分と待たずに出てくるのだから繁盛しないわけがない。
 大地は洗い終えた食器を調理台に運ぶと、そっと父を見た。父はフライパンで肉と野菜を炒めながら、焼き網の上の魚を引っくり返していた。揚げ場のザンギやトンカツにも注意をはらっている。顔が濡れている。汗だ。だらだら流れている。だけどきつそうな顔はいっさい見せない。お客さんの前では、父はいつだって笑顔だ。
 よおし、と大地はずり落ちたシャツの袖をまくり、洗い物をする手に力をこめた。負けるもんか。ぼくだってお父さんに負けない仕事をしてやるんだ!
 七時五十分をすぎると、客の流れがゆるやかになった。まだ満席だが、店の外の列はとだえたようだ。だけど大地は気を抜かない。閉店の八時ちょうどに客がどっとなだれこむ日だってあるのだ。
 八時になった。
 料理を出し終え、ぼちぼち片づけをはじめていた父が、のれんを下げに外に出た。閉店。大地はこの瞬間が好きだ。まだ目の前には洗っていない食器が山ほどあるし、客もまだカウンターに何人か残っているが、仕事の終わりが見えたことでガス欠寸前だった身体に力が蘇る。
「ごちそうさん」
 トンカツ定食を食べていた最後の客が立ち上がり、大地の前に食器を置いた。大地は、ありがとうございました、といい、掃除中の父も、ありがとうございます、と景気よくいった。客はレジスター代わりのクッキーの空き缶に五百円を入れると、ガラリ戸を開けて店を出ていった。このクッキーの空き缶も、人手不足を補うために考え出したものだ。
「よし、相棒」父が手をパンッとたたき、大地を見た。「八時半までに片づけちゃうぞ」
 はい、と答えながら、大地は壁の時計を見た。八時十分。目標タイムまで二十分もある。楽勝だ。シンクにはまだうんざりするほどの食器が残っているけど、ここからはもう減る一方なのだ。父がのれんを下げたとき以上に好きな瞬間だ。
 だけど大地が本当に一番好きな瞬間は、片づけの後、父と二人で銭湯に向かうときだった。父と並んで銭湯までの道を歩き、取りとめのない冗談をいい合ってげらげら笑う。そのひとときが最高に好きだった。クラスのみんなに休日の家族旅行があるように、友達とすごす放課後があるように、大地には父と歩くその時間がある。その時間が永遠につづくのなら、旅行にいけなくたってかまわないし、友達だっていらない。
 大地は疲れた身体をむち打って食器を洗った。最後の一枚を洗い終え、金タワシでシンクをピカピカにすると、終わりました、と大地は父に報告した。
「ホントに終わったか? 相棒」父はおどけた口調でいいつつ、油断のない目で大地の仕事をチェックした。「よし。オーケーだ。今日もよくがんばったな」
 父はサッカー選手が味方選手のナイスプレーをたたえるみたいに、大地の髪の毛をくしゃくしゃとやった。大地は父の手の大きさと力強さを感じながら、誇りいっぱいに微笑んだ。そして父の手が離れると、その笑顔のまま父を見上げた。
「よし。ふろにいくぞ」
「はい」腹の底から声を上げると、大地は父と一緒に店を出た。

   
                                         つづく
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